-NIGHT RAIN- 

 

 

夕方になって急に降り出した雨が地面に水溜りを作っていた。

 

「…止まない…わね…」

「走って帰るしかあるまい…」

 

舞と石津は降り止まない天を仰いでため息を付いた。

午後9時半。

雨による環境悪化を見越して二人で衛生官の仕事をしていたのだ。

二人はそろって整備員詰め所の前で再び天を見上げた。

この時期の雨は冷たい。さすがに雨の中に出て行くのは躊躇されてなかなか踏み出せずにいた。いつまでもこうしている訳にはいかないのは分かってはいるが。

 

所在無く立ちすくむ二人にカンカンカンと誰かが校舎の階段を降りてくる音が聞こえる。

 

「傘、無いの?」

言いながらやってきたのは速水だった。

 

「厚志か。見ての通りだ」

「帰るまでずぶ濡れになるね」

 

彼は開いた傘の端から空を見た。一時激しく降っていた雨も今は少し弱まってはいた。しかし帰るまでには相当濡れてしまうに違いない。

 

「これ、よかったら使って」

速水が手に持つ傘を石津に差し出す。

 

「…え?…私?」

「うん」

「厚志っ」

 

睨みつける舞と戸惑うように見る石津に速水は微笑んだ。

 

「僕達は大丈夫だから、使ってよ」

「『僕達』とは何だ。何故私が含まれるっ」

 

恋人を差し置いて他の女に傘を貸す彼を解せずに思わず舞が怒鳴る。しかし彼は一向にこたえるでもなく彼女にぽややんとした笑みを向けた。

 

「だって、僕ら、テレポート出来るじゃない?」

「そうか、その手があったか」

「ね?」

 

思いがけない提案に舞はすんなり納得した。

 

「…そう…じゃ、借りる…」

ほっとして石津が速水の傘を受け取った。

「ありが…とう…。明日…返す…わ」

礼を言って雨の中へ出て行く石津を二人が見送る。

 

「じゃ、行こうか」

「うむ。あ、待て」

鞄を雨よけにしようとする速水を舞が見た。

「何?」

「テレポートでは直接家へは帰れんぞ?」

「うん。少し濡れちゃうかも」

「しかたないか…」

「今町公園からだと僕ん家近いから大丈夫」

にこやかに笑う速水。

「そなた、最初からそのつもりでっ…」

「舞に傘貸して、石津に僕ん家来てもらった方が良かった?」

「…っ!」

(却下だそんなものっ。)と舞は心の中で叫ぶ。

いくら雨で困っているとはいえ、他の女に構う速水など芝村の誇りが許せる訳も無い。

 

「恐い顔しないで。僕がそんなことする訳ないでしょ?」

舞の胸中を知ってか知らずか、ふふっと笑って速水が上着を脱いで舞の頭に被せる。

 

「か、かまわぬ。お前が濡れるだろう」

「平気だよ。風邪引いたら舞に看病してもらうから」

「馬鹿」

「公園に着いたらすぐ走るからね?」

「…わかった」

舞の返事を聞くなり速水はテレポートパスを起動させた。

 

 

 

ヒュン。

 

公園についた途端、激しい雨が二人に降り注ぐ。

 

「走ってっ」

速水は鞄を雨よけにしながら、片手で舞の肩を抱き寄せて走った。

3分程走ってようやく速水のアパートに着く。

 

「ふー。大丈夫?」

「うむ。そなたは随分濡れてしまったな」

「とにかく上がって」

 

速水は鍵を開けると先に立って舞を部屋へ招き入れた。

 

「ついでだからご飯食べていく?」

「かまわぬが、それよりそなたは先に風呂へ入れ」

「うん」

 

言われて速水は着替えを手にバスルームへ向かう。残った舞は、それを見送り、濡れた彼の制服をタオルで拭いた後、壁のフックに掛けた。

それから

「まあ、このくらいは仕方あるまい」

少し赤くなりながらそうつぶやいて台所へ立ち、あり合わせのもので料理を始めた。

 

 

「どうした…え?食事作ってくれてるの?」

 

髪を拭きながらバスルームから出てきた速水は台所に立つ舞に声を掛けた。2つあるコンロの一つには鍋が、もう一つのコンロで舞は何かを炒めている。

「手持ちぶさただったからな」

照れ隠しにぶっきらぼうに答える舞を速水が覗き込む。

 

「嬉しいな、舞の手料理」

「いつも弁当を作っているだろう」

 

大様に答えて彼女は皿に肉と野菜の炒めをよそった。

 

「いつまで、ぼうっとしている。食事にするぞ」

「うん」

 

二人で手分けして食器と料理をテーブルまで運ぶ。

向かい合って座りながら速水はにこっと舞に笑った。

 

「お弁当も嬉しいけど、こうやって食事作ってくれるのはもっと嬉しいな」

「な、なんだ。大袈裟過ぎるぞ」

「だって…夫婦みたいじゃない?」

 

少し赤くなって言う速水に舞が真っ赤になる。

 

「ばばば、馬鹿者っ。何を言っているッ」

 

えへへと照れ笑いをしながら箸を運ぶ速水を見て、舞も赤くなりながら食事を取った。

 

 

食後、暖かい紅茶を飲んで人心地ついた頃

「ねぇ」

と速水が舞に視線を向けた。

「何だ」

「そろそろ、ね…」

 

彼の言葉に多目的結晶体で舞が時間を確認する。午後10時半だ。

 

「そうだな。帰るとしよう」

立ち上がる舞を速水が慌てて引き止めた。

 

「ち、違うよ」

「その逆」

「逆?逆とは何だ?」

「その…僕んち、泊まらない?」

その言葉にキョトンとして舞が彼を見る。

 

「えっと、もう遅いし、雨も降ってるし、外寒いでしょ?だから。…駄目?」

「かまわぬが、布団はもう一組あるのか?」

「ないよ」

「では、泊まるのは無理であろう」

 

(ああ、もう。分かってはいるけど、何でこんなに鈍いかな。)

速水は心の中で苦笑する。

 

「そうじゃなくて。一緒に、ね?」

「『一緒に』何だ?寝るとでも言うのか」

 

コクコクと彼女にうなずく速水。

(わかってくれるかな。)

 

舞は傍らのベッドを見て、速水を見た。

 

「これでは二人は狭かろう」

 

(だから違うって!)

狭いのなんて関係ない。一緒に寝るのが重要な訳で。

 

「あのね」

 

鈍感な舞に業を煮やした速水が立ち上がりかけた彼女の肩を引き寄せる。

 

「まい…」

 

小さくつぶやいて彼女の頬に唇を寄せて軽く触れる。

 

ちゅっ。

 

ここに至って、ようやく舞は事態を理解した。

 

(一緒に寝るとは、そそ、『そういう事』なのだなっ?!)

とは言え、『そういう事』の具体的なことは何も分からなかったが。

 

「やや、やっぱり帰るっ」

 

慌てて身体を引き離して立ち上がると、舞は鞄を掴んで玄関へ走った。

 

「待って!雨に濡れちゃうよ」

「でで、では傘を貸せっ」

「ヤダ」

「厚志っ」

焦る舞を玄関先で抱きすくめて速水は彼女の耳元で囁いた。

「今晩一緒にいて…」

 

そう言われても…。

 

半開きのドアの向こうに街灯に光る雨の粒が見えた。さっきよりも勢いを増したようだ。

鞄を抱きしめたまま躊躇する彼女を速水はなんとか部屋へ連れ戻した。

 

「舞が風邪引くといけないから。ね?」

 

結局押し切られる形で舞は泊まる羽目になった。速水のシャツを借りて、着替えるが、しかしベッドには近づけない。

「舞?」

呼んでも部屋の隅に立ち尽くすだけで、舞は動こうとはしなかった。

電気の消された室内で彼女の背中を見つめながらため息をつく。

 

「そんな所にいたら、風邪引いちゃうよ?」

 

そう言って彼はベッドをおり、俯いたままの舞を自分へと引き寄せた。

 

「なな、なぬをするっ」

 

抱き締める細い身体。ほのかに香る彼女の体臭と女の子特有の柔らかな感触。

この状態で、何もしないなんてやっぱり無理だ。全てが愛しくてたまらない。

 

付き合い始めて一ヶ月。ファーストキスは初デートの映画館で済ませた。ムードもへったくれも無かったが、恥ずかしがり屋の彼女を口説く機会はあまりにも少ないので仕方が無かった。今でも手を繋ぐ事さえ人目をはばかってなかなか承諾してくれない。健全な青少年としてはストレスが溜まる一方で。

 

「舞…」

耳元で小さくつぶやく。吐息が耳をくすぐって舞は暗がりの中真っ赤になった。

速水の手が彼女の胸の膨らみをなぞるように動く。

「厚志っ、そのような事はっ」

必死で手を掴んで引き剥がそうとする舞を速水はカーペットへ押し倒した。

「あっ…」

とっさに叫ぶ舞を速水が覗き込む。

「僕ら恋人どうしなんだよ?」

「そそ、それとこれが何の関係があるのだッ」

「大有りじゃない」

のしかかる彼を押し戻そうとする舞。

「舞だって分かってるんでしょう?」

「わ、わかってたまるかっ」

「この状態で文句言っても無駄だよ」

速水が膝を割り、押さえつけるように身体を重ねてくる。

「貴様っ、何をするッ」

「恋人同士がする事」

「ばっ、ばばばっ」

文句を言いかける唇を無理やり塞ぐ。

 

「うーっ…」

 

じたばたと暴れる身体にのしかかって宥めるように何度も唇を寄せて…

 

「舞?」

 

やおら大人しくなった彼女を覗き込むと、舞は目に涙を浮かべて唇を噛み締めていた。肩がかすかに震えている。

 

速水は身体を起こして舞を見つめた。

 

「…ごめん」

「あ、謝るなら、最初から、するなっ…」

 

つぶやく頬に涙が伝うのを隠すように舞は横を向いた。

 

「…ばか…」

 

小さくつぶやかれた言葉が速水の胸に突き刺さる。

 

傷つけるつもりは無かった。

本当に彼女が好きだから。でも…。

 

「…ごめんね、舞」

 

そっぽを向いてしまった彼女の肩に手を掛けてそっと自分の方へ向かせると潤んだ瞳が速水を見た。

 

「送って行くから」

 

頬の涙を指で拭う。

 

「もう、何もしない。だから泣かないで」

優しく頬を撫でてから、速水は舞を引き起こした。小さな嗚咽を漏らす彼女の頭を抱き寄せて震える背中に腕を回す。

 

「ごめん。僕、どうかしてた…」

 

言いながら静かに背中を撫でる。

 

「…僕のこと、嫌いになっちゃった…?」

 

舞は小さくかぶりを振った後、そっと速水にもたれかかった。

 

「でも…あんなのは、嫌だ」

「…うん」

 

まだ早かったのだ。彼女はまだ何も知らない無垢な少女で。

もっと彼女が大人になるまでは…今のままでいい。

キスしか出来ないけど、彼女を大事にしたいから我慢できる。

 

「ごめん、着替えよう。遅くなっちゃったけど家まで送るね」

そう言って速水は部屋の電気を点けた。

 

 

* * * * * *

 

 

四月の寒い雨の中、一本しか無い傘で寄り添いながら歩く。二人とも黙ったままで、ただ雨の音だけが道路に零れていた。

舞のアパートが見え、ドアの前まで一緒に歩く。

 

「風邪引かないようにね」

 

ドアノブを回す後ろ姿に声を掛けると、舞が振り返った。しかし、言葉は無く…

 

「おやすみ」

 

視線を落として小さくつぶやいてから速水は傘を広げた。飛んだ雫が街灯に光って消える。何故かため息が漏れた。夜の雨はやるせない。

 

身を返して彼が足を踏み出した時、不意に後ろから声がした。

 

「厚志っ」

 

舞が駆け寄って速水の袖を掴む。

 

「駄目じゃない。濡れるから早く家に…」

「すまぬ…」

「…え?」

思わずもれた声に舞はうつむいた。

 

「な、泣くなど…大人気ないことをした」

「舞のせいじゃない。僕がいけないんだ」

「ち、違う。その、何だ…次はちゃ、ちゃんと…」

「舞?」

速水の制服を掴む彼女の手が震えている。

 

「そ、そなたの気持ちは分かった。だ、だから…」

 

必死に言葉をつむぐ彼女に速水は微笑んだ。

 

「いいんだ。今のままで」

 

制服を掴む手に自分の手を重ねると舞はふと視線を上げた。

 

「…私が…私の事が嫌いにならぬのか…?」

「どうして?」

「恋人ならば皆そうするのだろう…?」

 

小声で囁かれる言葉。怯えるように見上げる瞳。

舞も不安なんだ。

 

「嫌いになんかならないよ。ずっと舞が好きだよ」

 

見つめる視線が絡み合う。

速水は心から彼女が好きなんだと改めて思った。

こんな状況でも自分の事を考えてくれる彼女を愛しいと思う。

 

「ほら、身体が冷えちゃうから家に入って。手もこんなに冷たくなってる」

重ねた手をゆっくり離して再び舞を見つめる。

「じゃ、また明日ね」

 

傘を持ち直して行きかける速水の袖を舞は再び引っ張って止めた。

 

(え…?)

 

頬を染めた琥珀色の瞳が近づき、一瞬軽く触れる唇。

 

「…」

「そそその、送ってくれた礼だっ」

 

真っ赤になった舞は照れながら小さく怒鳴ると踵を返して部屋へ飛び込んだ。

閉じられたドアを見つめながら、無意識に唇を指でなぞる。

不器用な彼女からの初めてのキス。

 

くすっ。

思わず優しい笑みがこぼれた。

僕も彼女もまだまだこれからだ。

お互いを思う気持ちをずっと持ち続けていれば、いつかは、きっと。

 

一人家路を辿る道路に雨粒がたくさん跳ねていた。

夜の雨は冷たい。でも速水の心は温かだった。

 

 

 

END

 

2002/7/25