-おもいで-

 

 

 5月2日(日)。自然休戦期まであと少しのうららかな1日。

 少し蒼さを増した空に綿雲が一つ二つと浮かび、穏やかな日差しが降り注ぐ。

 遠くからかすかに鳥の声なども聞こえてきて、散策などをするには絶好の日和ともいえる。

 こんなデート日和に二人は舞の家にいた。

 大掃除のために。

 

「あーあ、しょうがないなあ。まったく……」

 玄関口に佇みながら、速水が大げさにため息をつく。

「うるさいっ! そ、そんなにじろじろと見るな!」

 さすがに思うところがあるのが、舞が顔を赤くしながら無駄な抵抗を試みる。もちろん速水には全く通用していない。

「と言ってもね……」

 もう一つため息。

 

「確か、この間掃除したのって1週間前だったよね? どうしてここまで散らかせられるかな……」

「やかましい! わ、私とていろいろと忙しいし、これでも努力はしておる!」

 もちろんそんな言い訳が通用しないのは舞自身が一番承知している。なにせ自分が仕事を終えた後も速水が残業をしているというのは一度や二度ではなかったからだ。何故自分にもやらせないのだと強硬に詰め寄っても、これだけはいつもと違う断固とした態度で、

「休息を取る事だって大事な仕事だよ。さ、帰った、帰った」

 と手もなくあしらわれ、しぶしぶながら帰宅するというのが最近のパターンとなっていた。

 まあ、人類が圧倒的優勢となり、3号機の調子も限りなく完璧に近い今だからこそ出来る芸当である事も確かなのではあるが。そうでなければ、いくらなんでも舞も説得されなかっただろう。

 そこまで舞の身を案じつつ、なおかつ自己の限界まで手を休めようとしない速水の部屋は、本当にこれが男子の部屋かと思うくらいに一分の隙もなく整頓されている。

 とくれば、軍配がどちらに上がるかはおのずと明らかだろう。

「忙しい、ねえ……」

 そんなことを考えたのかどうか、速水は軽く肩をすくめるとよっこらしょと洗濯物を持ち上げる。

 と、とたんに舞が顔を一層真っ赤にして叫んだ。

「あ、厚志っ! 洗濯物に手を出すなと何度いったら分かるのだっ!!」

 そう。今速水が抱えている洗濯かごには脱ぎ捨ててあった着替えが山盛りに詰め込まれていた。

 当然、洗濯物であるからには使用済であるわけで。

 でもってその中にはもちろん下着もあるわけで。

 それを速水は表面上は何事もないかのように手早く仕分けると(下着は洗濯ネットに入れて)洗濯機に放り込む。

「だって、これを洗っちゃわないと、他にもやることあるし……」

「そういうことではないっ! それは私が洗おうと思っていたものだ! 勝手に手を出すでない!」

「部屋の隅々まで、これでもかっていうくらいに散らばってたのに?」

 冷静な速水の指摘、というよりそれは単に事実であった。

「うっ。そ、それは……」思わず言葉に詰まる。

「それに、この量、1回じゃ終わらないよ? もっとこまめにやらなきゃ……」

 そう言いながら、速水の手は既に自動的に動いて洗剤を入れ、タイマーをかけてスイッチを入れる。その動きには一瞬の遅滞もない。

「はい、こっちはもういいから舞は本を片付けてくれる?」

「う、うむ……、分かった」

 舞はちょっと拗ねたような口調でそういうと、無実の本たちをいささか八つ当たり気味に片付け始めた。その後姿を見ながら、速水は舞の父親が一体どのような教育を施したのか聞いてみたいと思ったが、黙って首を振るとちらりと洗濯機の方を振り向いた。

「ま、いいか。役得役得」

 ……速水もやはり男の子のようである。

 

 

 

(それにしても……)

 思わず速水は部屋の中を見回した。洗濯物は今処理したものの、本は読んだら読みっぱなし(舞は機能的に置いてあるだけだと主張している)、ゴミは奥の方で一まとめ(後で捨てるつもりだったと主張)流しの洗い物は漬けっ放し(漬け置き洗いを……)。

 まあ、それはいつものことだからまだいい。

(でも、何でこんなところにヒーターが出てるのさ?)

 彼の足元には某メーカーのオイル式ヒーターが所在なさげにぽつんと置かれていた。彼はずっと出しっぱなしになっていたこれを、2週間ほども前に押入れの中にしまいこんだ記憶がある。そしてその日から今日まで、これが必要とされるほど寒かった日は1日もない、と断言していい。

(何も使わない物をわざわざ出さなくったっていいと思うんだけどなあ……)

 このとき、速水はもう少しこれがなぜ表に出ているのか考えるべきであった。

「!? ま、待てっ!!」

 舞が言うより一瞬早く、速水はヒーターを引っ張ってきて何気にがらりとふすまを開けた。

 そこで彼が見たものは――

 混沌の海にたゆたうオブジェの群れだった。

「!?」

 何が起こったか認識するよりも早く、それらは実体化しながら速水めがけてなだれ落ちてきた。

「わあああああっ!!」

 かくして、速水は舞がその総力をあげて押入れに突っ込んだ、ありとあらゆる荷物に押しつぶされる結果となったのだ。

「あ、厚志!? 厚志っ!!」

 遠くで舞の呼ぶ声が聞こえたような気もするが、段々と意識が遠ざかっていく。

(努力って、これか……)

 そして、暗転。

 

 この時ならぬ雪崩により、大掃除は更に3時間ほど遅延することとなった。

 

 

 

「……」

「あ、厚志。その……すまぬ」

 ようやく大雪崩の余波も消え去った部屋の中で、二人はテーブルを挟んでクッションソファーに座っていた。テーブルの上にはぴかぴかに磨かれたティーセットが並べられ、カップからは紅茶の良い香りが漂ってきているが、速水の表情は彼にしては珍しく仏頂面のままだった。顔には数ヶ所にうっすらと擦り傷が残っている。

 まあ、都合10分以上もありとあらゆるガラクタの下敷きにされていれば機嫌が良かろうはずもない。ようやく引きずり出された時は、頭の上で士魂号が飛び回っているような状態だったのだから。

 舞は、これ以上は無理なのではないかというくらいにきゅうっと小さくなっている。さすがに押入れの惨状に一言もないといった感じだ。

「まあ、これからは気をつけてよね。恋人の家に来て押し入れの雪崩で圧死、なんていったらしゃれにもならないよ……、って、舞?」

 返事のないのをいぶかしんだ速水が顔を上げると、舞はティーカップを持ったまま俯いてしまっていた。もちろん顔は真っ赤だ。

 付き合い始めて一月ぐらいになるが、彼女にとってはいまだ「恋人」とか「愛」とかいう言葉は耳慣れぬ、緊張を強いられるものであるらしい。速水は、そんな一言一言にクルクルと表情を変え、生真面目に反応する舞が愛しくてたまらなかった。

 そんな舞を見つめる速水の瞳はどこまでも優しく、柔らかく、その口元には自然と笑みがほころんでくる。

 と、気配の変化を察したのか、舞がキッと顔を上げると速水を睨みつけた。ティーカップが少々乱暴にデーブルに戻される。

「厚志、何を笑っておる! 人がせっかく詫びているというのに、そなたときたらまた何かヘンな事を想像しているのであろう! 私を想像に出すのなら検閲させよと言っておるだろうが! 直ちにやめよ!」

 速水は悠々とカップから紅茶を一口飲むと、そっとテーブルに戻す。まだ顔は笑顔のままだ。それが舞の癇に障ったのかいっそう詰め寄ってくる。

「ヘンな事なんてなにも考えてないよ。まあ、君の事には違いないんだけど」

「それ見ろ! やはり考えていたのではないか。さあ、白状しろ! 何を考えていた!」

 既に噛みつきそうなくらい目の前に迫っている。速水はそろそろと姿勢を変えながらゆっくりと答える。

「それはね……舞は可愛いなあって事!」

「!!」

 言うが早いか舞の両脇の下に手を差し入れると、くるりと舞を抱き取ってしまった。いつの間にやら舞は速水の膝の間にはまり込むような格好で座らされている。

「こ、こらっ、そなた何をする! 私を子供扱いするな! 離せ、離さんかっ!」

「や、だ」

 ちょうど後ろから抱きかかえられるような格好になってしまった舞は何とか逃れようとしているが、速水の手は舞の腰に回されていてびくともしない。

「いい香り……」

 速水は舞の髪のゴムを外させると、その髪に顔を押し当て、ゆっくりと髪を鋤いた。

 舞の抵抗が段々と緩んできた。

「そそそんなことはな、ない。からかうのはやめよ……」

「からかってなんかいないよ。こうしてるととっても安心していられるんだ……」

「……たわけ」

 だが、言葉とは裏腹に舞は完全に抵抗を止めた。そしておずおずとではあるが速水に持たれかかるような姿勢になる。

「だがな、こ、これでそなたが安心出来るというのなら、す、少しならこうしていてやらん事もない。いいか? 少しだけだぞ」

「うん。ありがとう、舞」

 そういうと速水はゆっくりと舞の髪を鋤きつづけた。その心地よさに舞も身体の力を抜いて、ゆっくりと目を閉じた。

 静かな時間が流れていった……。

 

 

 

 どのくらいの時間が経ったのであろうか。やがて、速水がゆっくりと呟いた。

「ところでさ、舞……」

「……なんだ?」

 舞は、自らの髪を鋤かれる心地よさに半ば眠りに落ちかけていた。

「こんな物を見つけたんだけど……、これって何?」

「……?」

 何気に舞が目を開くと、速水は手に何かを持っていた。

 それはちょっと小型のハードカバー仕様の冊子だった。横にベルトがついており、ボタン留めになっている。

「!! そっ、それはっ!?」

 たった今までの雰囲気はどこへやら、舞は目を大きく見開くと速水の膝の間から飛び出し、驚きも露わに叫んだ。

「さっき下敷きになった時に見つけたんだ」

「なっ、中を、中を見たのかっ!?」

「いや、まだだけど。……どうしたの舞? 顔が真っ赤だけど?」

 訝しげに速水が訊ねる。確かに向かい合った舞は顔どころか首筋まで真っ赤になっていた。

「いや、な、なんでもないっ! そ、それより早くそれを私に渡すが良い!」

「……? だから中身は一体何?」

「そ、そなたには関係ないっ! は、早くよこせ!」

 あまりの舞の慌てように、速水の表情が訝しげに変わる。

(……僕には見せられない物ってこと?)

 中身への興味と、ちょっとした不安からいたずら心が鎌首をもたげた。すなわち、冊子のボタンを外そうとしたのだ。

「こらーっ!!」

 次の瞬間、舞が飛びかかってきた。驚いた速水は思わず手を頭の上に差し上げてしまう。

「返せっ!」

 舞が更に手を伸ばして何とかアルバムを奪い取ろうとする。

(くっ、もう少し……)

「ま、舞……」

 後少しでアルバムに手がかかるという時に、どこからともなく速水のくぐもった声が聞こえる。

「?」

 ふとその声で舞がパニックから回復すると、舞はいつの間にか速水にのしかかるような姿になっている自分を発見した。もし今の姿を見られたとしたら、十人が十人とも「舞が速水に襲いかかろうとしている」と答えただろう。

 そして、速水の声はちょうど舞の胸のあたりから聞こえていた。

 だが、速水がいたずら心の続きで放った次のセリフはまずかった。

「ん~、もう、舞ったら大胆なんだから♪」

「~~~~~~~~っ!!」

 舞が無声言語を張り上げながら振りまわした腕は、速水のみぞおちにクリーンヒットした。

「はぐうっ!!」

 速水の意識は再び段々と遠ざかっていった。

 

 そして、暗転。

 

 

 

「何も、あんなにいやがる事もなかったのに……」

 微妙に顔面の擦り傷が増えている速水が呟く。その右手は軽く腹のあたりをさすっている。

「うううううるさいっ……」

 舞が言い返すも、そこにはいつもの迫力はなかった。

 散々すったもんだの上、ようやく開かれた冊子は――

 アルバムだった。

 そして、その中には速水の写真が何枚も挟まれていたのである。

 数枚は舞が以前手に入れたデジカメで取ったと思しき物だったが、その他にも教室で、体育の時、訓練の時、キャンプ、炊き出し……。ありとあらゆる時の速水の姿がそのアルバムには挟まっていた。

 舞は顔を真っ赤にしたまま、不自然な角度でそっぽを向いてしまっている。

 あまりに後から後から出てくる様々な写真に、速水は一瞬ではあるが呆然としてしまった。

「……でも、どうして?」

「私は、写真など撮る事も、持つこともなかったからな……」

 舞は、少しだけ寂しそうに呟いた。

 舞の説明によればこうなる。

 写真は、それが存在するだけで敵に対してある程度の情報を与えてしまう。芝村の一員であればむざむざと弱点をさらすような真似はするわけにいかなかった。

 であるならば、舞も幼い頃からその点については細心の注意を払うように教育されてきたため、彼女自身の写真はもちろんの事、父と写真を撮ったことも父の写真そのものも持ってはいなかった、ということである。

 記録すべき大事な思い出も、忘れたくない出来事も振り返る事もなく……。

 今まではそれでも構わないと思っていた。芝村たる自分には過去を振り返るよりもなすべき事が限りなく存在すると思っていたからだ。

 でも、今は少し心境が変化した。

 記録を残すのも必要なのではないか、と。

 そう思うようになったのは、速水と付き合うようになってからだったように思う。

「そなたのせいだ……、そなたと出会ってからは私は芝村にあるまじきヘンな事ばかりしてしまう。い、一体どうしてくれるのだ……」

 不自然な姿勢を崩さぬままに舞が呟くように言った。その手はズボンの裾を握ったままになっている。彼女にしてみれば、これ以上ない不覚をとってしまったような気分に違いなかった。速水とまともに視線を合わせようともしない。

 と、何かが動くような気配があった。

「?」

 思わず舞が振りかえった次の瞬間には、速水にしっかりと抱きしめられていた。

「あ、厚志?」

 あまりに唐突だったので、怒る事も忘れた舞に、速水がそっとささやきかける。

「全くヘンな事なんかじゃないよ。舞が僕の事をそんなに気にかけてくれてたのが分かって、とても嬉しい……」

「わ、私の……カダヤだからな」

 舞は再び頬が熱くなってくるのを感じながら、ようやくそれだけ言った。

「これから、もっともっと思い出を作っていこう。もちろん、二人で。これから先、ずっと。……舞、僕がずっとそばにいてもいいんだよね?」

 静かな声で速水が問うた。抱きしめているために表情は分からなかったが、彼は舞がかすかに頷いたのを確かに感じた。

「当たり前だ。そなたの他に、誰が、私と、と、共に歩むと言うのだ……」

「……ありがとう」

 そう言うと速水は、少し身体を離すと舞に優しく口付けた。

「ん……」

 一瞬驚いた舞だったが、そっと目を閉じると、速水の背に手を回した。

 

 

 

 しばらく後、ようやくどちらからともなく離れると、二人は再び先ほどと同じような姿勢になっていた。

(でも、この写真……? それに、この画質は……)

「ところでさ、舞。この写真、どこで手に入れたの?」

 務めて何気ない風を装いつつ速水が訊ねると、舞はようやく覚めた頬がまた赤くなってきた。おそらく今日の彼女は血圧が上がりっぱなしに違いない。

「う、それは……」

「どこなの?」

 優しいけれど、有無を言わせぬ彼の声。

「……善行だ」

 やむを得ぬと言った調子で、舞が答える。

「ふーん……」速水は何となく興味なさげに答えると、再び舞の髪を鋤き始めた。

 

 

 

 その翌日、小隊司令室で盗難騒ぎが発生したが、善行によれば幸い盗られた物は何もなかった、とのことだった。

 だが、その事を告げた善行と、そしてなぜか若宮と原が、なぜかやたらと沈痛な表情をしていたという。

 

(おわり)

 

戴いた日:2001/12/16