-さらば愛しき人々よ-

 

 

 青かった空に灰色の雲が流れ込み、日は遮られ空は青さを失った。雲は空一面を覆い、上空を灰色一色にした。街に薄暗く冷たい空気が降りてきた。やがて、空から雨が降り出した。街は雨に濡れた。

 チョークの乾いた音が響く教室で、机にむかっていた何人かが窓の外へ目を向けた。薄汚れた窓に雨粒が流れ、徐々にその量は増え、しだいに外の景色が見えなくなっていった。天井に激しく打ちつける雨の音で、チョークの音はほとんど聞こえなくなっていた。壇上から窓のほうを見た本田は軽く溜息を吐いて、うんざりしたように天井を見上げた。

「この分じゃ、また雨漏りだろうナ……、そろそろ修理しなきゃマズイか」

 と疲れた調子で言い、再び黒板にむかってチョークを打ち鳴らし始めた。

 窓のほうを見ていた生徒たちも、既にそちらを見るのを止め、黒板のほうをそれぞれの表情で眺めていた。だが全員ではなかった。

 窓際の席に座る来須は、すぐ横で雨に濡れている窓を変わらずに見つめていた。目深にかぶった帽子に隠れて、顔の上半分は見えなかった。だが、口もとには何の表情も浮かんでいなかった。太い腕は組まれていて、机の上にはなにもなかった。雨が流れる窓に、外の景色は映っていなかったが、来須は変わらずに横の窓を見続けていた。

 警報が鳴り響き、来須が帽子を被り直すために腕組みを解いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

 

 

 阿蘇の大地の上に転がる死体は、激しく降りしきる雨に黙って打たれるだけだった。それは人間も幻獣も同じだった。動かなくなった死体はただ血を流すだけで、その血は雨と一緒に大地に染み込んでいくだけだった。横たわる死体は自分の身体がどうなろうとも、決して文句を言わない。たとえ、巨大な足に踏み潰されても。

 ただ真っ直ぐに地上を駆けてゆく複座型は、全身に薄い蒸気をまとっていた。加熱した機体の表面にひたすら打ちつける雨が、一瞬で蒸気と化していくためだった。

 速水は、鈍く光るモニターを見て眉をしかめた。

「なんだか、センサーの調子がよくないね……。故障じゃないとしたら、やっぱりこの雨のせいなのかな」

「だろうな。となると我らにはどうすることも出来まい。この状態で最善の動きをとりつづけるしかないな」

 後部席の舞は淡々と答えた。

 装甲や筋肉のいたるところに付着していた赤い返り血は、雨によりほとんど流されていた。だが白い血は違っていた。裂けた筋肉の奥から一定の間隔で吐き出される白い血は、雨と共に筋肉を流れて、その表面を白く染めていた。

 不意にコクピットの通信機が甲高い電子音を発し、直後に声が流れ出した。

「わりい、ちょっとゴタついてて遅くなっちまった。俺の声が聞こえなかったからって、浮気なんかするなよ、速水クン?」

 瀬戸口のからかい声に速水は苦笑してなにか言いかけたが、瀬戸口の声は真面目な調子になって続けた。

「残り200秒で敵集団と接触する。数は十機ほどだが、種別は特定できない。恨むんならこの雨を恨んでくれよ。……まあ、いずれにせよ」

 と声は言い、それから少し沈黙するような間の後に、再び聞こえてきた声には溜息と疲れが混ざっていた。

「これで、おふたりさんは揃って絢爛舞踏となるわけだ……。まあ、ほどほどに頑張ってくれよ。じゃあな」

 通信機は静かになった。

 速水は少し意外そうな表情でいた後、思い出したように頭を掻いて口を開いた。

「そういえば……、そうだったっけ。なんだか他人事みたいに思えて、実感が湧かなかったんだけど……。あと幾つだったかな、舞?」

「六機だ。それで我らは300機を落としたことになる。だが、今はどうでもよかろう。そんなことを考えるよりも、200秒後の戦闘にそなえるほうが肝心だろう」

 と言った舞に、速水は口を結んでうなずいた。

 暗い空から降りつづける雨の勢いは変わらなかった。濡れた大地を駆ける複座型の速度も変わらなかった。だが、遠くの行く先に広がる暗い闇は、その黒さを増していった。

 

 

 振り向きざま、後に迫ったミノタウロスの顔面にライフルの銃口を突きつけ、複座型は引き金を引いた。銃弾が頭部を砕き、身体はよろめき、背中が雨をはじいて地面に倒れた。役割を失った首元から赤黒い血が流れ出て、雨と一緒に地面に染み込んでいった。

 その間にも複座型は四方へライフルを撃ち続けていた。だが弾道は正確ではなかった。

「やっぱり照準がうまく作動してないよ、舞。対物センサーとの連動に誤差があるみたいだ。これじゃ幾ら撃ってもあたらないよ」

 と言い、速水は外景とモニターを交互に見ながら操作盤に手を踊らせた。後の舞は軽く頭を振って、汗を払った。それから手を上げて、天井に並ぶスイッチのひとつを切り、表示が変わったモニターに目を移して言った。

「ならばミサイルも使えぬか……。銃火器はアテにならぬということはだ、厚志よ」

「うん。センサー無しでも確認できる距離まで近づいて直接、だね」

 複座型はライフルを投げ捨て、大太刀を抜いた。そして周りを囲む幻獣との距離をはかるように、足の位置をゆっくりと確かめた。それから大太刀を中腰に構えた。

 複座型はその背中からつきだしたミサイル構により、重量のバランスが不安定だった。加えて地面は雨により、ぬかるみ、泥のようだった。これらが災いした。複座型は膝を屈め、地面を蹴って跳躍したが、十分ではなかった。跳ぶ直前に足が地面を捉えきれなかった。幻獣たちは、そこをのがさなかった。

 

 

 遠くに広がる闇の中で閃光がひらめき、直後に爆発が起こった。遅れてやってきた轟音と衝撃波に、来須は走る足を止めて身を固くした。ウォードレスが激しく揺さぶられ、ベルトに挟まった帽子がはためき、周囲の地面に溜まっていた水が衝撃に弾かれて散り、褐色の地面があらわになったが、それも一瞬だった。変わらずに降りつづく雨が、再び地面を濡らしていった。来須はすでに走りだしていた。

 しばらくしてから来須は走る速度を落とさずに、ライフルを掴み銃口を上に向けた。引き金が絞られ、乾いた銃声が響き、上空にむかって銃弾が放たれた。そして来須はライフルを投げ捨て、走る速度を上げて腰からカトラスを引き抜いた。

 灰煙を上げて方膝をつく複座型を取り囲んでいた幻獣たちは、銃声がしたほうへ眼をむけていた。ミノタウロスの拳は振り上げられたままだったが、それが降ろされることは無かった。背後から振るわれたカトラスが、頭部の上半分を薙ぎ払った。拳を上げたまま前に倒れこんだミノタウロスの後に立っていた来須は、周囲を睨みながら耳に手をあて通信を開いた。

「……こいつらはお前たち二人が倒せ。決戦存在となるべき人間ならできるはずだ。俺も援護するが、人類の代表として戦うのはお前たち二人だ。立て」

 複座型は膝をつかみ、よろめきながら立ち上がった。傍らに落ちていた大太刀を拾い上げ、息を整えるように各関節部から一度だけ白煙を吐き出し、膝を落として大太刀を構えた。機体を打つ雨が一層激しくなってきた。来須は複座型を一瞥してから、幻獣たちにむきなおり静かに口を開いた。

「機体を過信するな。自分の感覚を信じろ。目の前の敵を倒すことだけを考え、それ以外のことは忘れろ。いくぞ」

 来須は通信を切った。そして、複座型が大太刀を手に駆け出し、来須が膝を屈めてカトラスを逆手にとり、跳んだ。雨はなおも降りつづいていた。

 

 

 空を覆っていた雲がはれた時にはすでに夜だった。それと同時に雨もあがっていた。星の光が街を照らし、街の明かりが濡れた道路に反射していた。静かな夜だった。

 湿った校庭の真ん中で、来須は両手をズボンのポケットに突っ込んで夜空を見上げていた。時折、頭にかぶる帽子の位置を直すために手を上げたが、それ以外に動きをみせることはなかった。ただ静かに空を見上げていた。その顔に表情はなかった。

「先ほどは助かった」

 後から歩いていた舞が足を止めて静かに言った。来須はなにも言わずに空を見上げていた。舞はつづけた。

「私から礼を言わせてほしい。厚志は、どうやら従兄弟どのと何か話をしているようだ。あやつにも代わり、礼を」

 しばらく来須は上を見たまま黙っていた。やがてゆっくりと口を開いた。

「……必要は無い。俺は自分の仕事をこなしたにすぎん」

 と低い調子で言った。舞は少しだけ微笑んだ。

「だが、こちらは言わねば気が済まなかったのだ。おそらく厚志もそうだったろう。おぬしが感謝されるためにああしたわけで無いのは判っているが、それでも一言だけ言わせてほしかったのだ。気に障ったのなら、許せ」

 来須は口もとに微笑をうかべて、帽子の位置を押し直した。それから再び夜空に目を移して小さく息をついた。帽子の奥の目はどこか寂しげだった。後ろにたたずむ舞は唇を閉じて来須の背中を見つめていた。しばらく二人は黙っていた。

 やがて舞は訊ねた。

「行くのか」

「ああ」

 来須は低く答えた。それから目を校庭に向けて、眺めながら言った。

「……この世界での仕事は終わった。俺は新しい世界へ行く」

 舞は唇を引き結んで、来須の背中を黙って見つめていた。

 来須は目を落として帽子の縁を引き下ろした。

「……世話になった」

 と、変わらぬ調子で言ったきり、あとは黙って夜空を見上げているだけだった。舞はしばらく無表情に来須を見ていたが、やがて目を伏せると踵を返してそこを立ち去った。

 風はなかった。どこかで水滴が落ちる音がしていたが、それだけだった。来須は晴れた夜空にむかって歌を歌い始めた。誰にも聞こえない声で、ゆっくりと。

 

 

 速水は誰かを探すように、辺りを見回しながら歩いていた。その右肩口には真新しい勲章がさがっていた。プレハブ校舎のわきを通り、広い校庭に出たところで速水は遠くに目を留めた。それから校庭の真ん中に立つ人影にむかって、走り寄っていった。

「先輩」

 と速水は声をかけた。背中をむけて立っていた来須は、上を見上げるのを止め、帽子を手で抑えて地面を見た。それから自分の手を広げて、それを見た。表情は帽子に隠れていた。速水は首を傾げて来須の背中を見ていた。そしてためらいがちに口を開いた。

「あの……、先輩。さっきの戦闘で……」

 言い終わらぬうちに、速水の言葉は切れた。目が見開かれた。

 来須の周囲に青い光が灯りはじめる。その珠のような光たちはゆっくりとその数を増やし、静かに来須のからだを廻りだした。来須の姿は青い光に包まれて、段々と淡く、薄くなっていった。身体を包む光のなかで、来須は手を上げて帽子を取った。そして、ふり返り、慣れない仕草で少しだけ微笑んでみせる。

「……俺は気の利いた言葉を知らん。だからこんなときに云うべき言葉も、俺には判らん」

 と寂しげに言い、手にしていた帽子を放った。濡れた地面に落ちる。

「それだけだ。ほかにはなにも無い。今の俺には……」

 といって自分の胸を叩いた。

「なにひとつ無い。この永遠の旅を終わらせるだけの力も無い。ただの、非力で、不器用な男だ」

 そう言い、来須は苦い表情で自分の手のひらを見下ろした。唇が結ばれる。

 速水は青い光にしばらく目を見張っていた。それから思い出したように首を振り、そして来須にむかって口を開いた。

「そんなことないですよ」

 と明るい調子で言った。来須はためらうように横目で速水を見た。速水はつづけた。

「僕らがここまでこれたのは、僕や舞だけの力じゃないんです。みんなが一緒に戦ってくれたから、僕たちは」

 といって右肩の勲章に指先で触れ、

「これを受けることができたんですよ。先輩や、みんなの力でもあるんです。それに、来須先輩がいたから僕や舞は、こうして生き延びることができたんですよ。他にも先輩が助けた人たちは大勢いるはずです」

 そう言って速水は微笑んでみせた。来須はしばらくのあいだ苦い表情で地面を見つめていた。だが、やがてゆっくりと目を上げると遠慮がちに微笑んで返した。

「……そうだと、いいがな」

 と言った。そして背中をむけて歩き出した。青い光が後を追う。

 速水は声を張り上げた。

「どこへ行くのか分からないけど」

 来須の背中が消えかかる。

「みんなで先輩の帰りを待っていますよ。みんなが、先輩の仲間なんだ。不器用とか、そんなこと思ってる人だっていやしない。みんなでずっと待ってるから!」

 

 来須は最後に手を振った。そして、消えた。

 

 

 青い光たちは、来須を見送るかのようにしばらくその場に漂っていた。それから、どこか名残惜しそうにひとつ、ひとつとその場をあとにしていった。

 速水はただ来須が消えた場所を見つめていた。その隣りに、舞が静かに歩み寄ってきた。

「……舞は知ってたの」

「まあな」

 舞も速水と同じところを見た。

「詳しく知るわけではないが、おおよそのことは知っているし、他の部分についても想像はできる。あやつも運命に縛られた男なのだろう」

 速水は肩を落とした。そして呟いた。

「運命、か……。僕はあまり好きじゃないんだ、その言葉」

「私もだ。この言葉は弱者の言い訳のためにあるのかもしれんな……」

 しばらくふたりは黙りこんだ。舞が校舎のほうへ目を向ける。

「皆が待っている。私は先に行ってるぞ」

 速水が力なくうなずくと、舞は校舎のほうへ歩いていった。

 それから速水は、先ほどまで見つめていた場所まで歩いて、膝を屈め、手を伸ばして帽子を拾い上げた。軽く土を払って、しばらく見つめていた。やがて深く息を吸って、吐くと顔を上げて背を伸ばした。帽子を両手で持ったまま、頭を下げた。そして踵を返してその場所を立ち去った。

 

 静かな夜だった。

 青い光は残っていなかったが、遠くの街の光は消えることはなかった。

 

 

戴いた日:2001/8/8