-彼女のわがまま-

 

 

マズイとは思っていた。

表面上はなんでもない振りをしているけれど、そんな平気なはずはなかった。

彼女は、決して弱みを見せる人ではないのだから。

僕がそれを思い知らされたのは、このすぐ後の事だった。

 

 

『せーの……速水くーん!』

ハッピを着た女の子達に囃し立てられて、原にからかわれる。

「うふふ。若宮くんみたいな娘たちね、人気者さん?」

言われて、瞬間的にかあっとなる。頬が熱いのが自分でも分かった。きっと、恥ずかしいくらい真っ赤になっている。

若宮くんみたい、というのは原が若宮に同じような格好で追い駆けられているからだろう。思わず自分が若宮に追い駆けられるのを想像してしまい、気分が悪くなる。

原が、そんな風に赤くなったり青くなったりする速水を楽しそうに眺めていた。

 

 

そして、教室に来て。机の中を覗くと、ぎっしりとこの手紙が詰め込まれていたのだ。

どうしようかと途方にくれていたら、彼女に……そう、舞に見られてしまった。

「もてもてだな。女子校の生徒か?」

ギクッ。

突然後ろから声を掛けられ、飛び上がりそうなほど驚いた。それでも出来るだけ平静を装って、ゆっくりと舞に振り向く。

「あ、うん……そうみたい」

舞の表情は固かった。

「大事にするがいい。きっとそれを書いた者は、一生懸命書いたに違いない」

「……怒らないの?」

「怒る? 何故だ」

抑揚のない返事。口ではこう言っているけれど、内心ではきっと怒ってる。

「だって、僕は君のカダヤなのに……こんな……」

「勝手に受け取るものにまで規制をかけるわけにはいかぬだろう。それとも何か? そなたは私に『厚志は私のものである故、何か渡すときには必ず私に検閲させてからにせよ』とでも言わせたいのか?」

言葉にトゲがある。なんだか、内側からえぐられているみたいな気がした。

「僕はそれでもいいんだけど」

そう言ったら、真っ赤になって俯かれてしまった。いつも思う事だが、こういうところがとても可愛いと思う。

それでその場は、何とか収まりそうだったのに。

 

 

「おっ? なんだよそれ、ラブレターか?」

突然、滝川が間に割って入ってきた。

「わわっ。滝川っ?」

「ちぇー。いいなぁ速水は、もてもてでさ」

「も、もてもてって……」

ぴく、と舞の肩が跳ねたような気がした。

「で? 返事どーすんの? って、聞くまでもないよな」

にまりと笑って、速水と舞の顔を交互に見比べてくる。

「ちょ、ちょっと滝川……」

舞が困ってるよ、と言おうとしたのに。

「ちゃんと返事はしてやれよ。受けるにしても、断るにしても。それが恋愛のルールだ」

「うわあっ! せ、瀬戸口さん?」

後ろから寄りかかられる。背の高い瀬戸口にこれをやられると、速水はまるで抱き付かれるようだ。

「ほーほー、大した数だな」

「ちょ、瀬戸口さん、やめてくだ……」

「あ、そーいえばさ、今朝お前の親衛隊みたいのもいなかった?」

滝川に言葉を遮られた。おまけに今朝のことをばらされる。最悪だ。

「な、なんで滝川が知ってるのさ?」

何時も遅刻ばっかりの滝川が、なんであの事を?

「ひ・み・つ。あー、それに何日か前、女子校の廊下でクッキーも貰ってたっけ?」

ギクギクッ。

次々と秘密にしていた事がばらされていく。それも、よりによって舞の前で。彼女に知られたくないからこそ、秘密にしていたことばかりだったのに。

見れば、舞の肩はふるふると震えていた。

「あ、あの……舞?」

おっかなびっくり、そう声を掛けたら。

 

ぱぁん!

 

強烈なビンタが返って来た。

その音に驚いて、教室が静まり返る。みんな、速水と舞の方を見ていた。

舞に叩かれた頬に手を当てる。痛みはなかった。あるのは只じんじんとした痺れと、舞にそこまでの事をさせた自分自身に対しての、押し潰されるほどの心の痛み。

舞は肩を震わせたまま、何も言わない。俯いたままなので、どんな顔をしているか分からなかった。

「……舞」

声を掛けると、びくりと舞の身体が跳ねた。

「……あっ、舞!」

呼びとめる間もなく、舞はくるりと身を翻すと教室の外に駆け出して行ってしまった。

「あ……えっと、速水。俺……その……」

滝川が何か言っていたけれど、今の速水にそれが聞こえるはずはなかった。ただ舞を、必死で追い駆けた。

教室を出たところで、本田とぶつかりそうになる。

「おい、あぶねえな。ったく、芝村といいお前といい、前方不注意だぜ」

「先生、舞はどこへ?」

「へ? あ、ああ、どこ行ったかまでは見てねぇけど……」

返事を聞くのももどかしく、その場を離れる。

「おいっ! もうすぐ授業始まるんだぞ!」

「欠席しますっ」

それだけ言い残して、再び駆け出した。

 

 

真っ先に向かったのはハンガーだった。きっと舞はここにいる、そんな予感がした。

階段を上がり、いつもの仕事場へ。

舞はそこにいた。

三番機の前で、暗がりに隠れるように。膝を抱え、顔を埋めていた。

「……舞」

驚かせないように、ゆっくり近寄って優しく声を掛ける。聞こえているはずだけど、舞は顔を上げなかった。

隣に腰を下ろす。怒られるかな、とも思ったけれど。舞は何も言わなかった。

「ゴメンね」

「何故、謝る」

 顔を埋めたまま、舞がそんな事を言う。

「だって……叩かれたのは、僕が悪いからでしょ? きっと舞の機嫌を損ねるような事を……」

「謝るな!」

怒鳴られた。顔を上げた舞の目に、光るものが見えた。ごしごしと袖で目を擦ってから、舞はきっと速水を睨みつけてくる。

「謝るな……そなたは何も悪くはない」

「でも……」

「厚志は悪くない。全て、私のわがままなのだ」

「…………」

「謝るな。頼むから……謝らないでくれ。私が惨めになるだけだ……」

それきり、舞はまた顔を埋めてしまう。

声を掛けるのもためらわれ、速水はただ隣に座って舞の感情の爆発が収まるのを待つしかなかった。

 

「私は……許せなかった。他の女が厚志に好意を向ける事が。厚志が、それを受け入れる事が。そして、そんな心の狭い自分が許せなかった」

顔は上げないままで、舞はぽつりぽつりと自分の気持ちを漏らし始める。それは、他人の前では決して見せない……厚志の前だけでしか見せない、裸の心だった。

「私は、嫌な女だ。こんな私は、芝村ではない。私はこんな私は知らぬ……」

ふわりと、舞の身体が包み込まれる。速水が膝を抱えて小さくなっていた舞の身体を抱きかかえたのだ。

「あ、あああ厚志?」

突然の事にあたふたとする舞。それまでの沈んだ心はどこへやら、一転して真っ赤な顔で慌てている。

「いいんだよ、舞。僕が好きなのは芝村の舞じゃなくて、一人の女の子としての舞なんだから。だから、無理に芝村でいる事もない。僕の前では、素直でいて欲しいんだ」

「それは……そんな事は、できぬ。そんな事をしたら、私は芝村でいられなくなる……」

「いいんだってば。芝村である事で舞が泣くんだったら、芝村なんてやめちゃえばいい。舞がやめられないって言うんだったら、僕が無理にでもやめさせる」

速水と舞の視線が合う。

「舞が舞でいられないのなら、芝村なんて必要ない。お願いだからもっと素直になってよ。もっと我侭になってよ」

きっぱりと言う。揺らぐ事のない、偽らざる気持ちだった。舞は不思議そうに速水の顔を見上げる。

「いいのか? 私が素直になれば、今日のような事がまたあるかもしれないぞ」

「覚悟してる」

「毎日、引っ叩くかも知れぬ」

「何発でも」

「そなたを、束縛する事になるかも知れぬ」

「望むところだよ」

「私が素直になると、きっとただの嫌な女だぞ」

「知ってるよ」

「こいつめ」

泣き腫らした真っ赤な目で、それでも舞は笑った。芝村でいたならば決して出来ない、最高の笑顔で。

「ならば、まずは一つ約束がある」

「なに?」

「私にもしていない事を、他の女にするな。私がしていない事を、他の女にされるな」

「分かった……けど、後の方は難しいね」

苦笑する。それを確実にこなそうというならば、舞以外の女性とは完全に接触を断たなければまず無理な話だ。

「努力せよ。努力なくして進歩はない」

「うん。舞も努力して、もっと素直になろうね」

「なっ! わ、私は今でも充分素直だっ」

「嘘ばっかり」

そう言って笑う速水に、

 

ぱん

 

「……いたいよ」

再び舞の平手が飛んだ。けれど、さっきよりはずっと弱く。

「これが、素直な私だ。私を苛めてばかりの厚志を、すぐに引っ叩く。これが本当の私だ」

「ふふ……うん。それが舞の素直なら、それでいいよ」

ぎゅっと舞の身体を抱き締める。

「厚志?」

「その代わり、僕も素直にならせてもらうよ」

「な……」

舞が言葉を紡ぎ出す前に。速水の口唇が舞の口を塞いだ。

「ん……! ん、ん……ん……」

抵抗しようともがく舞だが、やがて観念したかのように力を抜く。そしておずおずと、その腕が速水の背に回された。

「そなたは、私のものだ……そなたの全ては……私の、もの、だ……」

「舞?」

抱き締めた腕の中から、嗚咽が漏れる。

「だから……厚志。お願いだから、どこにも行くな……私を、置いていくな……」

「大丈夫、どこにも行かないよ。僕は舞のものだから」

「我侭なのは分かっている。それでも……それでもっ。渡したくない。厚志は、私だけのカダヤなのだ……」

「我侭なんかじゃないよ。舞は今まで我慢をしすぎたんだ。もっと、言ってよ。僕にできることなら、なんでもするからさ」

ぽろぽろと零れ出る涙を、口唇で掬い取る。

舞は泣き続けた。今まで内に溜め続けてきた辛さを全て吐露するかのように。目の前に愛しい人に全てを委ね、その胸で泣き続けた。

 

 

 

「あのっ、速水さん! こ、これ読んで下さいっ」

リンゴのように真っ赤になりながら、速水に手紙を手渡したその女生徒は駆け去って行く。

「あ、ちょっと……」

呼び止めようとするが、既に声が届く範囲に彼女の姿はない。

「まいったな……」

受け取った手紙を眺めながら、ぽりぽりと頭を掻く。可愛らしい封筒にハートマークで封がされている。

「舞になんて言われるかな……」

「あ~つ~し~」

「!!!」

背中から聞き慣れた、けれども妙にドスの効いた声が掛かる。

「今手渡されたのはなんだ? まさか『らぶれたあ』ではあるまいな?」

「あ……その、えっと……」

咄嗟の事に、上手いごまかしが思いつかない。あたふたとしていると舞の手が伸びてきて、左右からほっぺたを引っ張られた。

「言った筈だな? 私がしていない事を、他の女にされるな、と」

「いひゃいよ、まひ~」

「ふんっ! でれでれと鼻の下を伸ばしおって、情けない」

頬をさすりながら速水がぽつりと漏らす。

「そんなに言うなら、舞も手紙を書いてくれれば良いのに……」

「何か言ったか?」

「ううん、なんにも」

慌てて否定する。こんな事を考えているのを聞かれたら、頬を引っ張られる程度では済まない。

「でも、そうやってわがままを言ってくれる舞も可愛いよ」

「まだ言うか? そんな事を言うのはこの口か? ん?」

「いひゃいいひゃいっ」

口ではこう言っているけれど、速水の目は笑っていた。少しずつだけれど、素直な自分を見せてくれるようになった舞の変化が嬉しくて。

「よいか? 厚志、そなたは私のカダヤなのだ。他の女に気を取られるなど、もっての外だぞ」

「分かってるよ」

「よし」

 満足そうに頷く。

「では、これを受け取るが良い」

「……なに?」

手渡された包みをしげしげと眺める。

「分からんのか? ……お、お弁当だ。いつもそなたが作ってくれるばかりでは悪いからな。たまには……だ」

真っ赤になる彼女が可愛くて。またからかってしまいたくなるけれど、ぐっとそれを堪える。

「ありがとう。お昼休み、一緒に食べてくれるよね?」

照れた顔を見られたくないのだろう。俯いて、それでもこっくりと頷いてくれた。

 

 

意地っ張りな彼女だけど。決して弱みを見せまいとする彼女だけど。

たまに見せてくれる、その本当の心はとても暖かい。そして、けれどもとても脆くて、壊れやすい。

その暖かみを失わないために。脆い心が壊れてしまわないために。

「舞……きっと、守ってみせるよ。折角我侭を言ってくれるようになったんだから……ね」

 

 

 

戴いた日:2002/5/10