-戦乙女の選択-
一つ息をつくと、、速水厚志は手に持った超硬度カトラスを一振りした。
刀身にこびりついていた血糊が床に落ちて湿った音を立てる。
熊本軍生徒会連合参謀室長、芝村勝吏準竜師の私邸である。廊下は一面に赤い絨毯が引かれたように染まり、壁には幾つもの弾痕と返り血とが見て取れた。
振り返る。あるいは拳銃を構え、あるいは警棒を握ったまま絶命している屍の中に物言わぬ親友の骸を見付け、唇を歪める。何処からか流れ込んだ風が死体の頭髪を揺らし、鉄錆と硝煙の匂いが鼻腔を刺激する。かつては癖のない金髪だったそれには血がこびりつき、奇妙なまだら模様を作っている。
その唇が何かを言いかけたかのように固まっているのが見て取れた。最後に彼は何を言おうとしたのか。殺された彼の義姉の名なのか、それとも懐かしい母親の名前なのか。ただ一つ確かな事は、彼もまた家族の元へと赴いたということだけだった。
風の方向を見た速水の眼が細められ、唇から抑揚のない声が漏れた。
「……舞」
彼の恋人でもある芝村の末姫、舞が奇妙に歪んだ表情でそこにいた。
「厚志、どう言うことだ、これは。なぜお前が従兄弟殿の命を狙う?」
訳が解らないといった表情の恋人に厚志は優しく笑いかけた。
「仇討ちさ。森さんのね」
舞は混乱した。確かに森は死んだ。三日前のことだ。だが、仇討ちとは一体……?
「馬鹿な。森は交通事故で死んだのだろうが」
「おかしいと思わなかったのかい。死体も葬式もない事故なんて有り得ないだろう? それに茜は森さんの義弟だ。その彼に遺骨すら渡さないなんて」
舞は背筋を震わせた。確かに厚志は笑っているのに、殺気も感じてはいないと言うのに、この悪寒は何だろう。
「森さんは殺されたんだよ。……僕達芝村一族にね」
速水は皮肉げに笑うと、左胸に揺れる青い宝玉を埋め込んだ勲章を揺らしてみせる。芝村一族の証である勲章を。
「ば、馬鹿な。何故そんなことを我が一族がする必要がある!?」
舞が奇妙に引き攣った声で叫んだ。既にその顔は蒼白で、今にも倒れそうに見えた。生前の森の姿が思い出される。無愛想な娘だった。ことさら敵を作るかのような物言いが気に障った。だが誰よりも真面目で、働き者の整備士だった。断じて、断じて我が一族に害を成すような存在では有り得なかった!
「士魂号だよ、舞。森さんは士魂号の秘密を調べていた。芝村にとって機密である士魂号の秘密をね」
「だが、だが何故、貴様は我が一族に害をなそうとする? 我がカダヤよ。お前も既に芝村なのだぞ!?」
速水は笑みを含んだ視線で舞を見つめた。聞き分けのない幼子に教え諭すかのような、慈愛に溢れた瞳だった。
「言ったろう? 仇討ちだって。復讐するは我にあり、だよ」
「そんなことをして、森が喜ぶとでも思ったのか!」
舞の叫びを聞いて、速水は呆れたように首を振った。陳腐だ。なんと言う陳腐な論理か。これが世界を支配せんとする芝村の末姫の言葉だろうか。あるいは彼女もまた戦友の死の真相に動揺しているのだろうか。
何故だかひどく滑稽な気分だった。なるほど、笑うしかない事態と言うのはこういう事を言うのだろう。
胸の奥から微笑みが溢れ出る。楽しくもないのに、可笑しくもないのに、どうして僕は笑っているんだろう。
「僕の気が晴れる」
微笑みながら彼は言った。舞が最もよく知った表情、彼がいつも浮かべていた表情で、微笑みながら彼は告げた。
「な……」
「森さんは死んだ。死ねば何も出来ない。死者は笑わない。死者は喜ばない。冥福を祈るのも、仇を討つのも、残された者の自己満足に過ぎない」
歌うような調子で言葉を続ける。奇妙な抑揚を持ったそれは、敬虔な祈りのようでもあり、あるいは睦言のようでもあった。
「評価などいらない。賞賛すら必要ない。他人の言葉など関係ない。重要なのは僕の意思。その為には世界すら敵とするその覚悟。我らは誇り。誇りこそ我ら。どの法を守るも僕が決め、誰の許しも乞わない。僕の主は僕一人。……良い言葉だと思わないかい?」
ああこれは誰だろう。目の前にいるこの男は。底知れぬ深淵のような瞳をしたこの男は。舞は眩暈を感じた。私が知っていた太陽のような少年はどこにいったのだろう。いつから黒い月のような男に変わってしまったのだろう。
「厚志……そなたは疲れておるのだ。ゆっくり休めば……」
自分が誤っていると言うことに気付くだろう。
「そうだね、舞。僕はひょっとしたら狂ってるのかもしれない。どうかしてしまったのかもしれない」
そう言って舞を見つめた。少女の顔が僅かに喜色を取り戻す。だがそれも一瞬の事に過ぎなかった。
「けれど……もう治ろうとは思わない。癒されようとも思わない。森さんは死んだ。芝村に殺された。茜も死んだ。もはや帰る道は何処にもない。これが、僕の選択だ」
奇妙な沈黙が流れた。舞が一歩前に出ようとして踏み止まった。
「そうか……お前は、もう私のカダヤではないのだな」
奇妙に悟ったような表情で舞が言った。
「お前は私のカダヤであることを止めたと、そう言うのだな」
けれどその瞳には押さえきれぬ震えがあった。懇願の色があった。間違いを認めて欲しいと、いつものように私に笑って欲しいとそう願っていた。
舞にも本当は解っていた。彼は絶対に前言を撤回しようとはしないだろう。そんな彼だからこそ、彼女はカダヤに選んだのだから。
慙愧の念を押さえながら、左腕の多目的結晶を操作した。
「……さらばだ、速水。七つの世界にかけて、我はそなたを愛していた」
体から力が抜け、速水はその場に膝を突いた。奇妙な痺れが体中を支配する。手足が冷たくなり、熱を奪われる感覚。
「な……?」
半ば麻痺した腕を曲げ、胸元の勲章に触れようとする。この奇妙な痺れの中にあって、胸の一部からのみ鈍い痛みが伝わってきていた。
「芝村は例外なくその青い宝玉を身につけている。……何故だか解るか?」
奇妙に固い少女の声に、速水は懸命に体を起こそうとした。
「その宝玉には毒が仕込んであるのだ。虜囚の辱めを受けたときの為に、あるいは一族を裏切った時の為にな。残念だな、速水。まさかそなた相手にこの仕掛けを使うとは思わなかったぞ」
芝村になるには三つの条件がある。一つにはその者に芝村となる覚悟があること。二つ目にその者に芝村に相応しい力を持っていること。そして最後に、芝村による推薦があることである。芝村になると言うことは、凄まじいまでの権力を手にすると言う事でもある。故にその資格審査は厳しく行われるし、推薦者は新しく芝村になった者の行いに対して責任を負う義務がある。その者が芝村に相応しくないと場合、推薦者は速やかにその者の命を絶たねばならないのである。
「無駄だ、速水。その毒はテトドロキシンといってな。青酸カリ以上の毒性を持つ。いくら我ら第六世代でも助からぬ……」
固さはそのままに、少しづつ少女の声が震え出した。この毒にはもう一つの特性がある。体は痺れ自由を失い、けれど五感のみは死のその時まで保たれると言うことである。
耳も聞こえ、目も見え、けれど指一本すら動かせずに死を待つしかない恐怖。それこそが芝村の裏切り者に与えられる罰なのだった。
体が裏返され、仰向けにされる。上下逆さまになった少女の顔が速水の視界に飛び込んできた。後頭部には軟らかい感触。彼女に膝枕をされているらしい。
「馬鹿め、馬鹿め……」
呟きながら舞が速水の頬を引っ張る。いつか感じたことのある懐かしい痛みが速水を襲った。
熱い雫が速水の頬にふりそそぎ、血にまみれた顔を清めていく。
胸に注がれた毒の痛みよりもなおも苦しい痛みが速水を襲った。何故こうなってしまったのだろう。僕は君に笑って欲しかったのに。だからこそ、芝村になろうとしたのに。おかしいね。僕は、何で君を傷つけてしまったんだろう。
奇妙な安らぎが速水を包んでいた。死を怖いと思ったことはなかった。それは彼の身近に常にあったからだ。死ぬときは恐らく戦場であろうと覚悟していた。士魂号の爆発に巻きこまれて、あるいは幻獣に体を引き裂かれて死ぬのだろうと。
奇妙な感慨が彼を包む。そうか、君が僕の死神か。
だが、死の瞬間を迎えようとする彼の心は奇妙に静かだった。愛する少女の傍で、最後の瞬間までその姿を見つめつづけながら逝けるのだ。これほど幸せな死に方はあるまい。
動かぬ体の力を振り絞り、奥歯を噛み締めた。唇が微笑みを形作る。舞が悲痛な表情で首を振った。
「お前は、酷い奴だな、速水。お前は酷い奴だ……何故……何故この後に及んで私に微笑みかけるのだ! 何故私を呪わぬ、何故私を恨まぬ!」
いっそ呪われたかった。恨まれたかった。愛する者を手にかけた自分には、怨嗟の表情こそが相応しいとそう思った。けれど速水は微笑んでいる。幸せそうに微笑んでいる。
そっと舞の左手が伸び、速水の左手に触れた。多目的結晶同士が触れ合い、速水の思念が流れ込んでくる。
(……舞……舞。……僕の舞……)
飽く事なく繰り返される呼び掛け。速水は無心に舞の名を呼びつづけていた。赤子が母を求めるように、あるいは信徒が女神を崇めるかのように。
(さよなら、舞。……僕の戦乙女)
その言葉を最後に、速水厚志の時は止まった。
そっと速水の頭を床に置いて立ちあがった。既に涙は乾いている。
片手で軽く唇を拭った。今もかすかに残る思い人の温もりを振り払うかのように。
戦乙女か。舞は苦笑した。ゲルマンに伝わる伝説、戦士の魂を誘う美しい死神。速水を戦場に誘い、そして死へと誘った自分には何より相応しい名前ではないか。
次の瞬間、速水が死んだのに笑う事の出来る自分に気付いて憮然となる。どうやら自分は思っていたよりも冷血漢らしい。
だが、それもよかろう。奇妙に冷めた心で舞は思った。脳裏に速水の言葉が甦り、舞は挑むように歌うように呟いた。
「そうだな、厚志。もう戻ろうとは思わぬ。癒されようとも思わぬ。そなたは死んだ。そなたは死んでしまったのだからな。もはや帰る道など何処にもない。これが、世界の選択なのだから」
あるいは自分もまた壊れたか。それも良いだろう。我が一族にとって、狂気はすなわち褒め言葉なのだからな!
天を仰いで哄笑する舞。そんな彼女を、何処からか迷い込んだ青い光が愛しげに見つめる。それは奇妙に幻想的な光景だった。
既に日は落ち、夜の帳が世界を包む。室内には目に沁みるほどの鮮血の色。その中央で少女は哄笑し、青い光が散華する。
何処からか、今はもう失われてしまった少年の声が聞こえた。優しげな響きの声が木魂する。
(ずっと傍にいるよ、舞。僕の戦乙女)
(終)
戴いた日:2001/12/18