陽だまりの中、猫になる…

 

 

「だいぶ慣れたね?」

速水くんは仔猫を膝に乗せて撫でている舞ちゃんに声を掛けた。

うららかな休日の午後。

開け放たれたベランダから暖かい日差しが差し込んでいる。

にゃぁ。

みぃー。

まん丸の小さな瞳に囲まれた舞ちゃんがこぼれんばかりの笑みを浮かべて擦り寄る仔猫の喉をかいている。

 

 

2週間前。

仔猫を見せてくれるという速水くんに誘われて舞ちゃんは彼の家へやって来た。

速水くんが部屋のドアを開けた途端にみゅーみゅーという可愛らしい仔猫の鳴き声がする。

「どうしたの?」

「い、いや」

玄関先で緊張している舞ちゃんに速水くんが笑う。

「ほら、みんなも早く舞に会いたがってるよ?」

速水くんに急かされて舞ちゃんは慌てて靴を脱いだ。

その時、部屋の奥から何か出てきた。

猫だ。

背中に綺麗な縞の入ったアメリカンショートヘア。

「とにかく部屋に行こう」

「わ、わかった」

じっと見つめる猫を避けるように舞ちゃんが速水くんに続く。

「適当なとこに座って」

「うむ」

促されてカーペットに座った舞ちゃんに速水くんは猫を抱き上げて近づいた。

「抱いてみる?」

「ええっ?!」

彼が硬直状態の舞ちゃんの膝の上に猫を置く。

「撫でてごらん。平気だから」

恐る恐る手を伸ばして舞ちゃんはそっと猫を撫でた。

ふわふわしていてやわらかい。

猫はピクンと耳を動かしたが、逃げ出す様子は無かった。

「おとなしいんだ。初めはそうでもなかったけどね」

くすっと笑って舞ちゃんを見る速水くん。

何か含むところがありそうな言葉だったが、猫に夢中な舞ちゃんは気付かない。

「名前は?」

「舞」

「何だ?」

「だから、名前」

「…?」

「この子、『舞』っていう名前なんだ」

「厚志っ」

急に声を荒げた舞ちゃんに猫はビクッっとして彼女の膝から飛び降りた。

「あ…」

「駄目だよ大声出しちゃ。恐がるでしょ?」

「そ、そなた、人の名前を勝手に…」

速水くんは猫を抱き上げて言い聞かせた。

「君の名前をもらった人だよ。僕の好きな人。だから仲良くしてね」

それを聞いて舞ちゃんが真っ赤になる。

速水くんは笑って再び猫を舞ちゃんの膝に座らせた。

「今、飲み物いれてくるから。いい子にしててよ、舞」

頭を撫でられて『にゃぁ』と鳴く舞。

「人間の舞もね」

「あつし」

クスクスと笑いながら速水くんが出て行く。

 

猫と二人で残された舞ちゃんはそわそわと部屋を見回した。

仔猫の声がするからである。

膝の舞も落ち着かな気に耳をぴくぴくさせている。

にゅー、みーと鳴き続ける仔猫に舞は膝から降りた。

四つん這いになって舞ちゃんもそろそろと後に続く。

壁の隅に段ボール箱が1つ。

舞がトンっと中に飛び込んだ。

緊張した面持ちで舞ちゃんが中を覗く。

 

いた!

仔猫が5匹。

白いのが2匹と母猫に似たのが3匹だ。

生まれて1週間くらいなのでまだ小さい。彼らは争って母猫のお乳に吸い付いている。

「かわいいでしょ?」

いつのまにかやって来た速水くんが舞ちゃんの隣に屈み込んだ。

「この白いのが『未央』で縞の濃いが『陽平』。こっちが『祭』で隣が『銀河』、これが『大介』だよ」

「…お前、私の名前だけでなく、仔猫にみんなの名前をつけているのか?」

「舞がもっと子供を生めば、小隊全員がそろうかもね」

「…」

「触っても大丈夫だよ。ほら」

舞ちゃんは速水くんの真似をして指で仔猫を撫でてみた。

母猫と違いふわふわさが五割増しだ。壊れそうなくらい、やわらかい。

「気に入った子がいるならあげるよ?」

「本当か?」

舞ちゃんの顔が嬉しそうに輝いた。…が、すぐに曇る。

「や、やっぱりやめておく」

「どうして?」

「まだ、こんなに小さいのに、親から離すのは忍びない…」

「すぐに大きくなるよ?」

「でも…」

子供は親の愛情をたくさん注がれた方が幸せだ。

自分のようにわざわざ寂しい思いをさせることはあるまい?

「じゃあね、もう少し大きくなるまで僕が面倒みるよ。それまでは舞が会いにくればいいよね?」

「いいのか?」

「うん。いつでも遊びに来ていいよ」

 

 

そんな事があってから舞ちゃんは休日の度に速水くんの家を訪れるようになった。

今日で3回目。

瞬く間に仔猫たちは成長し、やんちゃな遊びざかりになった。

むらがる仔猫たちが可愛くて、舞ちゃんは夢中で彼らとじゃれる。

そんな舞ちゃんを見て速水くんが微笑む。

「猫になろうか?」

「猫?」

「ん、猫みたいにゴロゴロしよう?」

「?」

「こんな風に」

速水くんはカーペットにごろんと寝転んだ。気持ちよさそうに伸びをして。

「舞も」

「私は…」

「ほら」

「わっ」

腕を引かれて舞ちゃんも寝転ぶ羽目になる。

「家ではよくこうやってゴロゴロするんだ」

横になったまま速水くんが舞ちゃんを見て笑う。

「こうやってるとね、舞とか陽平とかが踏んずけてったり、舐めたりするの。引っかいたりもするけどね。僕も猫になって遊んであげるんだ。面白いよ?」

「猫になって遊ぶのか?」

「うん」

「そう言われても、どうしてよいのかわからぬ」

「簡単だよ。手は使っちゃいけないの。ほら、犬とか猫ってそうでしょ?」

「手を使うなと言われても…」

「こうするんだよ」

速水くんは舞ちゃんに近づいて彼女に頭を摺り寄せた。

「わわっ、なっ、何を…」

「駄目だよ、起きちゃ。猫にならないじゃない」

「そそそ、そんな事言っても…」

「気にしない、気にしない。猫なんだから」

そう言って速水くんはまたカーペットに寝転がる。

 

「日差しが暖かくて気持ちいいね。本当に猫になっちゃいそう」

軽く伸びをして満足げに速水くんが目を閉じる。

二人を包む午後の日差し。

確かに猫の好きそうな陽だまりである。

舞ちゃんは戸惑いながらも彼を見真似てそろそろとうつ伏せに寝転んだ。

みぃー。

興味を示した仔猫たちがわらわらと二人に寄って来る。

「わっ」

いきなり突進して来た大介に舞ちゃんは慌てて顔を伏せた。

ぺたぺたと大介が彼女の頭を叩く。

「こら、よさぬか」

舞ちゃんの結んだ髪にじゃれ付いて陽平が肩口を昇り始めた。

祭は速水くんの背中に昇っている。

「未央、引っかくな」

「ああ、髪が…」

肩に昇った陽平が前足で舞ちゃんの髪をガシガシと引っかいた。

ひらひらと揺れる髪が面白いらしい。

「陽平は舞がお気に入りみたいだね。って、うわっ」

背中に昇った祭が今度は速水くんの頭によじ登る。

「駄目だよ、祭。落ちるっ」

目的を達することなく彼女は速水くんによってカーペットに降ろされた。

不満そうに一声鳴いて今度は舞ちゃん目掛けて走って行く。

「みんな僕より舞のが好きみたい」

「そ、そんなことは…こら、くすぐったい!」

大介と祭が舞ちゃんの耳の辺りから頭へよじ登ろうと躍起になっていた。

陽平がじゃれる髪が気になるのだ。

舞ちゃんが頭を振る度に揺れる髪。

動く物が好きな彼らにとってまたとない遊び道具である。

他の仔猫も真似をして次々と舞ちゃんによじ登り始めた。

「うわ、厚志、何とかしろ」

「もう降参なの?」

「いいから、早くなんとかしろ」

小さなふわふわに囲まれて舞ちゃんが悲鳴をあげる。

腕に足をかけて昇っていた大介がぽてんとカーペットに落っこちた。

猫の割りに運動神経が鈍いみたいだ。

笑いながら見ていた舞ちゃんと視線が合って大介が『みぃー』と鳴いた。

突然舞ちゃんの顔に飛びつく。

「こら~っ」

「しょうがないなぁ」

速水くんは舞ちゃんに並んでうつ伏せになりながら彼女に取り付く仔猫たちに頭を寄せた。

「陽平、こっちにおいで。祭も」

祭と未央が素直に彼の肩に移動する。しかし陽平は舞ちゃんにしがみついたまま。

「陽平~」

彼女の首元で頑張る彼に速水くんは頭を押し付けた。

ぐいぐいぐい。

みー。

ころんとあえなくカーペットに落下。

「厚志、あまり可哀相なことをするな」

「平気平気。陽平は一番元気がいいからね。こら、銀河。そんな羨ましい事しちゃ駄目!」

肘を付く舞ちゃんのわきの下を潜ろうとした仔猫に速水くんの叱責が飛ぶ。

「…」

舞ちゃんに群がる仔猫を何とかどかせて速水くんが母猫を呼んだ。

「ほら、みんな。お母さんの所に行っといで」

ベッドの上から飛び降りる舞に仔猫たちが沸き立った。

甘えたい盛りの彼らがこぞって母猫に駆け寄る。

 

「助かった…」

「ね、面白いでしょ?」

「うむ」

速水くんは笑って舞ちゃんの肩に頭を乗せた。

「ああああ、厚志?!」

「動いちゃ駄目だよ。仔猫たちが驚くから」

「でで、でも…」

「話すのも駄目。僕たち今猫なんだからね?」

この状態で動くな、話すなと言われても…。

仔猫に囲まれた舞は子供たちを舐めていたが、盛んにせがまれて『やれやれ』といった感じで横になった。仔猫たちが騒ぎながら舞に群がる。

速水くんと舞ちゃんはしばらくそのままで仔猫たちを見ていた。

と。

ふいに速水くんが舞ちゃんのうなじにトン…と頭を当てた。

(え…?)

舞ちゃんの心臓がドキンと鳴る。

彼が頭を摺り寄せて舞ちゃんにもたれかかる。

仔猫が母猫に甘えるしぐさだ。

舞ちゃんの心臓が早鐘のように打った。

(お、落ち着け、落ち着けというのにっ)

鼓動を聞かれるのが恥かしい。

速水くんは静かに目を閉じた。

いい匂いがする。舞ちゃんの匂い。

自分が本当に猫ならば、ゴロゴロと喉を鳴らしているに違いない。

舞ちゃんは困惑しながらも無防備に寄りかかる速水くんに何だか優しい気持ちになった。

うなじに感じる彼のやわらかな髪。撥ねた毛先が少しくすぐったい。

しばし思案した後、ドキドキしながら軽く頭を傾けてみる。

いつもならば、自分がこんな事をするとはとても思えない。

でも今は、速水くんも舞ちゃんも猫だ。

速水くんが舞ちゃんの頬に頭を摺り寄せた。

舞ちゃんがそれを包むように更に頭を傾ける。

 

ゆったりと時間が流れる。

降り注ぐ暖かい光にこのまままどろんでしまいそうな-

猫とは何と幸せな生き物なのだろう。

 

仔猫たちの鳴き声はいつしかしなくなっていた。

どうやら満腹になって眠ってしまったらしい。

速水くんが頭を上げた。

頬に当たる彼の唇。舞ちゃんの身体がビクッと震える。

しかし速水くんはそれに気付くそぶりを見せず、彼女のこめかみに頭を寄せた。

頬が触れて、直に体温が伝わる。

舞ちゃんはぎゅっと目をつぶった。

こんなに近くで速水くんを感じたのは初めてだった。

キスされる時以外は。

頬に速水くんの息が当たっている。

動けない。

互いの唇までの距離があまりにも短くて。

思わず舞ちゃんは小さく息をついた。

そんな彼女に速水くんが静かに唇をずらす…。

 

ふに。

突然やわらかくふわふわしたものが鼻先に当たって舞ちゃんは驚いた。

目の前に舞の顔。こちらを見て尻尾を揺らしている。

「?!」

「邪魔しちゃ駄目だってっ」

とがめる声をよそに、舞が速水くんに『にゃー』と鳴いた。

仔猫たちが寝てしまったので遊んで欲しいのだ。

「もうっ。いいとこだったのに…」

とつぶやく彼に舞ちゃんは耳まで真っ赤になった。

「お茶にしようか」

照れくさそうに速水くんが立ち上がる。台所へ向う彼の足元を舞が擦り寄りついて行く。

火照る頬を押さえて身体を起こした舞ちゃんの耳に

「駄目じゃないか、行儀よくしてないと。ご飯あげないよ?」

と舞にお説教する速水くんの声が聞こえた。よほど残念だったようだ。

くすっ。

その姿を思い描いて舞ちゃんは思わず笑ってしまった。

猫に説教するなど、いかにも速水くんらしい。

怒られた舞が舞ちゃんの元へやってきて膝に飛び乗った。

なぁぅ。

「気にするな。そなたのせいではない」

しおらしく丸くなる彼女の背中を舞ちゃんは慰めながら優しく撫でた。

彼女にとって飼主である速水くんは世界の全てなのだろう。

もう少し優しくしてやればいいものを。

「本当に舞は猫が好きなんだね。焼けちゃうな」

トレイを持って戻ってきた速水くんが舞ちゃんの隣に座りながら言った。。

「猫の舞も仔猫たちも好きだけど…僕、一番好きなのは人間の舞なんだ」

紅茶のカップを置きながら速水くんがチラッと舞ちゃんを見る。

「舞は猫より僕のこと、好き?」

「ななななななっ、何を言っているッ」

「いいじゃない、教えてよ」

舞ちゃんは考えた。

速水くんの事は嫌いじゃない。…というか恋人なので好きなのだと思う。

猫は無条件で好き。天が創りたもうたこの上なく可愛い生き物だ。

『好き』の種類が違うので比べられない。

この場合『どっち』と言われて何と答えればいいのだろう…?

「ちょっと、何で考え込むの?」

そう言われても。

「傷つくじゃないか…」

速水くんが恨めしそうに舞ちゃんを見る。

彼女は困り笑ってごまかした。『どっちも好き』じゃ駄目なのだろうか。

「舞が猫を好きなのはわかるけど、やっぱり1番は僕がいいな」

速水くんはカーペットに両手をついて舞ちゃんを覗き込んだ。

「ま・い」

視線を向ける彼女に速水くんがふわりと微笑む。

それから顔を近付けて、そっと唇を合わせた。

離してから再び。

そして、もう一度。

「僕が1番の舞でいて」

「猫はその次」

こんな事をされたら、否応無しに1番になってしまうではないか。

「ね?」

舞ちゃんは赤くなりながら出された紅茶を一口飲んだ。

「…ま、まかせるがいい」

速水くんは満足そうに微笑んで自分のカップを手に取った。

 

 

* * * * * *

 

 

「ねぇ、来週も来る?」

手を繋いで家へ送る道すがら速水くんが舞ちゃんに尋ねる。

「そうだな。出撃がなければ」

「じゃあ、土曜日の夜からおいでよ」

「ど、どどど土曜の夜?!」

「そうすれば朝から一日中みんなと遊べるよ?」

「しっ、しししし、しかしっ」

「嫌?」

聞かれて舞ちゃんは言葉に詰まった。

さすがに彼女にだってその意味くらいはわかる。

だって二人は恋人同士で…。

速水くんが言っているのは、たぶん…いや、きっと。

「かっ、かかか、考えておく」

「うん」

しどろもどろに答える舞ちゃんの手を速水くんがぎゅっと握った。

 

夕暮れの町に街灯がつき始める。並んで延びる影法師がゆらゆらと揺れる。

黙ったまま歩く舞ちゃんの口からため息が漏れた。

何だか今日は眠れそうにない。

週末に向けてもっと眠れないかも知れない。

でも。

速水くんの手の暖かさを感じながら舞ちゃんは思った。

 

また猫になってみるのも悪くはない…か。

猫は幸せな生き物だから。

 

 

END

 

2001/6/10