You are my No.1

 

 

「舞」

呼ばれて彼女は顔を上げた。

「だいぶ進んだね。まだやるの?」

速水くんが紅茶のパックを舞ちゃんに差し出す。

昼からずっと仕事を続けていた舞ちゃんは多目的結晶体で時間を確認した。

午後8時半。かれこれ7時間も作業していたことになる。

土曜日と言う事もあって他に残っている者は殆どいない。

がらんとしたハンガー2階にいるのは速水くんと舞ちゃんだけだった。

「頑張るのはいいけど、少し休まなきゃ」

言いながら速水くんが騎魂号のパラメータチェックを始める。

受け取った紅茶を飲みながら舞ちゃんはぼんやり彼を見た。

確かに機体のパラメータは当座の目標以上に上昇しており、あえて残って仕事をするのも…という程の万全の調整。

しかし、仕事を終えるということは…

うつむいて足元を見つめる。 

 

先週、彼に言われた『土曜日の夜からおいで』という言葉。

迷っていつまでも返答が出来ない自分に彼が言った。

『日曜日だけ猫、いるようにするから』

『明日、遊びにおいで』

迷わなくていいように、返事をしなくていいように、彼が付いた優しい嘘。

全部わかってしまった。彼の気持ちも自分の気持ちも。

だから、ちゃんと返事をした。

『今日、遊びに行ってもいい』と。

その時彼は抱き締めただけで、何も言わなかったけれど…。 

 

「舞?」

掛けられた声に舞ちゃんは我に返り、それから工具を片付け始めた。

「終わりにするの?なら一緒に帰ろうか」

彼は手にした工具を片付け、手際よく外したカバーを取り付けていく。

作業終了確認をしてから、二人は並んでハンガーを出た。

教室に寄って鞄を取り、並んで歩きながら家路を辿る。

道すがら舞ちゃんはこれからの事を考えて緊張しまくっていた。

さすがに同じ手足を同時に出しはしなかったもの、どことなく歩き方がぎこちない。

速水くんがそんな彼女を見てクスクス笑う。

「な、何がおかしいっ」

「ううん、別に。明日出撃がないといいね」

「そ、そうだな」

取り留めの無い話をしながら、いつしか二人はどぶ川べりの小さな四辻へ来た。

右へ曲がると舞ちゃんの家、まっすぐ行くと速水くんの家。

速水くんが立ち止まって舞ちゃんを振り返った。

「明日来るなら早めにおいで。その方がみんなも喜ぶから」

ドキドキする舞ちゃんに彼は持っていた鞄を差し出した。

「おやすみ」

鞄を受け取った彼女に笑って身を返す。

(あ…)

咄嗟に舞ちゃんは速水くんの制服を掴んだ。

「何?」

問い掛ける彼の声。

昼間の言葉が脳裏に浮かんだ。

『行く』と言ったから。だから。

「しし、芝村に、に、二言は無いのだ」

どうにか意志表示はしてみた。

しかし思わず声がうわずって恥かしさで耳まで赤くなる。

(しっかりしろ。覚悟を決めたのではないかっ)

自分を叱責しつつも顔が上げられない。

きっとまた変な顔になっているに違いない。

速水くんはそんな自分を可愛いと言ってくれるけれど、本当かどうかは甚だ怪しい。

「いいんだ。舞の気持ちだけで十分嬉しいから」

うつむく耳に速水くんの静かな声が届いた。

何と言っていいかわからない。でも。

舞ちゃんは彼の腕にしがみついた。

彼が付いた嘘が嬉しかったのは本当で。

彼を好きなのも本当で。

そうなることが嫌なわけではない、と思う。

…こういう時、何と言えばいいのだろう? 

 

速水くんは押し黙る彼女の手をそっと外した。

「あつし…?」

顔を上げて瞳に映る自分を見つめながら速水くんの言葉を待つ。

すると彼は突然コツンと舞ちゃんの額に自分の額を当てた。

「な、なななななっ」

「本当に舞は可愛いんだから」

至近距離にある青みがかった瞳が笑う。

これだ。彼は自分が何をやってもこういう反応をする。

芝村になったというのに、以前とまったく変わらない、ぽややんのまま。

「夕飯、一緒に食べよっか」

笑いながら舞ちゃんの手を引いて速水くんはゆっくりと歩き出した。 

 

10分程歩いて速水くんのアパートに着いた。

彼は鍵を開けて舞ちゃんを招き入れた。

玄関に足を踏み入れた舞ちゃんがその場で立ちすくむ。

あんなに賑やかだった仔猫達の鳴き声がしない。

(大家に預けたと言うのは本当だったのか?)

(本当に猫はもういないのか?)

不安気に見上げる舞ちゃんの手を引いて速水くんが部屋へ上がった。

電気を付けてベランダのガラス戸の前へと連れて行く。

「あ…」

カーテンを開けると、灯った電気に仔猫たちがカリカリとガラスを引っかいていた。

「舞が外に出たがるから、外に寝床を作ってあげたんだ。随分暖かくなったし、みんな元気だよ」

彼がベランダの戸を開けた途端、仔猫たちが中へなだれ込んで来る。

にゅー。みー。

彼らは遊んで欲しいのか先を争って舞ちゃんに足にまとわりつく。

陽平、祭、銀河、大介、未央…みんないる。

舞ちゃんはカーペットに座って1匹ずつ抱き上げては顔を覗いた。

「元気だったか?」

なーう。

「みんなにご飯あげなきゃね。舞も手伝ってくれる?」

「まかせるがいい」

笑みをこぼして振り返った彼女に速水くんが笑った。

台所から持ってきた猫缶を二人でお皿に開ける。

速水くんが新聞紙の上にお皿を置いた。

「ほら、お食べ」

仔猫たちが一斉に駆け寄った。我先にと餌皿を取り囲み食事にいそしむ。

「美味いか」

舞ちゃんが仔猫の頭を撫でながらつぶやいた。

「そんなに慌てなくてもまだあるから」

兄弟から押し出されてしまう弱気な仔猫を母親のように舞ちゃんがいたわる。

速水くんはその光景を目に静かに微笑んだ。

 

「僕らも何か食べよう。スパゲティならすぐに作れるから、ちょっと待ってて」

速水くんが台所にいる間、舞ちゃんは仔猫たちと思う存分じゃれあった。

ふわふわして暖かい生き物。にゃーと鳴いて駆け回るしぐさ。

全てが愛しくてたまらない。

仔猫達を撫でながら、彼女はカーペットに視線を落としてぼんやり考えた。

速水くんの嘘はやはり自分の為だった。

少し考えればわかりそうな嘘なのに。

(日曜日だけ猫を家に置いておくなど…)と考えて、舞ちゃんはふと思い付く。

やるかも知れない。彼なら。

本当に猫がいなくても、彼なら日曜日に猫を家に置いておくかもしれない。

自分の為に。

根拠は何もないけれど…何故だか彼ならやる気がした。

穏やかな笑みを絶やさないカダヤ。

包むようにいつもやさしくて、暖かい…

「そなたらは幸せだな。いい主人を持って」

にゃぁん。

答えるようにどこかで仔猫が一声鳴いた。

 

夕食は賑やかだった。

食事を始ると同時に仔猫たちがテーブルによじ登ろうとしたからだ。

メニューはクリームスパゲティにほうれん草とベーコンのサラダとコンソメスープ。

漂う匂いに興味を引かれたらしい。

「うわっ、テーブルに乗っちゃ駄目だって言うのにっ」

速水くんは膝によじ登りガラステーブルに足を掛けた祭を慌てて床へ降ろした。

と、今度は反対側から銀河がよじ登って来る。

「もう、マグカップひっくり返さないでよ?君たち」

ちょいちょいと取っ手を引っかく銀河に彼は苦笑してカップを奥へと押しやった。

舞ちゃんはというと、口に運ぶフォークから下がるパスタを陽平に引っかかれそうになり

「あ、こら私のスパゲティに何をするっ」

とこれまた慌てて陽平を膝から降ろしていた。

「ねぇ、この子達スパゲティ食べるかな?人間の食事はまだやったことないんだけど」

「試してみるか?」

速水くんが先の餌皿をおいた新聞紙をテーブルまで引き寄せた。

舞ちゃんがスパゲティをフォークで切ってひとつを餌皿に落とす。

にゃっ。

いち早く陽平がそれに飛びついた。

くんくんと匂いを嗅いで手で引っかく。

「駄目かな」

「待て」

しばらく遊んでいた陽平はパクッとそれを口にした。

食べにくそうだが何とか咽喉の奥へと移動させ、数回咀嚼して飲み込んだ。

「食べた!」

気に入ったのか陽平は舞ちゃんの膝に昇ってきてテーブルを見る。

「美味かったか?先ほど餌を食べただろう、お前は」

そう言いながらも舞ちゃんは新たなスパゲティを餌皿に落とす。

今度は何匹かが一斉に新聞紙に駆け寄った。

争ってスパゲティを奪い合う。

遊んでいるのか、食べたいのかわからないくらいの混乱ぶりだ。

「待て待て、喧嘩をするな。皆にやる」

彼女は食事をそっちのけで猫にスパゲティをやり始めた。

どの子も初めて食べると言うのに、器用に細いパスタを食べている。

「そんなにあげたら、舞の分が無くなっちゃうよ」

「かまわぬ。そんなに腹が空いている訳ではない」

「だって舞」

「何だ。…厚志?」

舞ちゃんはじっと見る速水くんに気付いた。その視線はどことなく寂しげで。

「僕の作った料理食べたくないの?」

「そういう訳ではないが、猫が…」

仔猫の食べるしぐさがいつもと違って面白かったのでつい度を越してしまったか。

「ちゃんと食べて。僕の分あげる」

彼は自分の皿を寄せて彼女の皿へとスパゲティを取り分けた。

「こんなに食べれぬ」

「駄目だよ。午後からずっと仕事してたじゃない。食べなきゃ倒れちゃうよ」

気遣う彼に舞ちゃんは追加されたパスタを口へ運んだ。

食べながらチラと彼を見る。

「美味しい?」

嬉しそうに尋ねる声。彼は舞ちゃんを見て微笑んでいる。

陽だまりを思わせる暖かな瞳。この笑顔に弱い。

「う、美味いぞ」

そうつぶやいて慌ててお皿へ視線を落とす。

少し赤くなりながら、彼女は残るスパゲティを食べ始めた。

 

食後、片付けを終えてから速水くんはベランダの戸を大きく開けた。

仔猫たちを呼んで外へと連れ出す。

1匹ずつ寝床に入れてやり、ガラス戸を閉めてカーテンを引いた。

静かになった室内で彼が舞ちゃんを振り返る。

どきんっ。

舞ちゃんの心臓が大きく跳ね上がった。

(いいい、いよいよ…なのかっ?!)

しかし、固唾を飲む舞ちゃんに掛けられた声はぽややんとしたものだった。

「新しい紅茶があるんだ。飲んでみる?」

「こここ、紅茶?」

「そう、紅茶」

彼は舞ちゃんの胸の内を見透かしているのか、くすくす笑って台所へ向う。

残された彼女は何だかはぐらかされたようで一気に脱力した。

思わずほっとため息が出る。

「お湯が沸くまで少し待ってて」

台所でやかんを火にかける速水くんをぼんやり見ていると、しばらくして独特の香りが漂ってきた。

ティサーバーとカップを載せたトレイを持って彼がテーブルへとやって来る。

「ハーブティだよ。カモミールティ」

「カモミール?」

差し出されたカップを受け取って、舞ちゃんはその香りを嗅いでみた。

香草のような少し青臭い匂いがする。

「眠れない時に飲むといいんだって」

「眠れない時?」

「試してみたけど…」

『よくわかんないや』とつぶやく彼に舞ちゃんが笑う。

速水くんも小さく笑ってカップを手に彼女の隣に座った。

「何だってそのような気になったのだ?ハーブティを試すなど」

「ずっと気になって…」

(あ…)

舞ちゃんは隣に座る彼を見た。微かに青い瞳が見つめ返す。

「ねぇ、髪…下ろしてみて」

「なな、何だいきなり?」

「見てみたかったんだ。舞が髪を下ろしたところ」 

「そのようなものを見てどうするのだ」

と言いながらも舞ちゃんはカップを置き、髪ゴムを外した。

豊かな黒髪が肩に落ちる。

「思ったより長いんだ」

彼は手を伸ばしてその黒髪に指を絡めた。

「綺麗な髪…」

言いながら指で髪を梳いていた速水くんが静かに舞ちゃんの肩を引き寄せた。

「あ、ああああ厚志?」

彼が舞ちゃんの髪に顔を埋める。

「いい匂いがする…」

彼女はくすぐったさと恥かしさで肩を竦めた。

それを更に速水くんが引き寄せる。

「この間もいい匂いがしてた…」

「こ、こここの間?」

「先週。猫になった時」

赤くなってうつむく舞ちゃんの耳元で速水くんが囁いた。

「舞の匂い好きだよ」

「ええ?」

「綺麗な髪も…細い指も、その目も、唇も…みんな好き」

「僕…舞の全部が好きだよ」

 

『好き』。その言葉は恋人から言われるほど甘美で…

肩に置かれた手の温もりと共にどうしようもなく彼女を困惑させた。

「舞は僕のこと…好き?」

「ええっ?」

確か先週も同じ事を聞かれた気がする。

あの時は答えなかったのだっけ。笑ってごまかして。

「ねぇ、好き?」

答えを促して速水くんが覗き込む。

「…好き、だぞ」

舞ちゃんは消え入りそうな声でそれだけつぶやいた。

頬が熱い。心臓が勝手にダンスを始める。

「僕のどこが好き?」

「えっ」

「一度聞いてみたくて」

そんなこといちいち考えた事などなかった。

気が付いたら好きになっていた。

側にいるのが当り前で。

クラスも同じ、仕事も一緒、戦闘時さえも同機に搭乗し-

恋人になってからそれ以外の時間も。

優しい瞳をして、時にはからかい、時には気遣って彼はいつも舞ちゃんの側にいた。

それはあまりにも自然で、空気のような感じだった。

どこが、ではなく存在が。彼がそこにいることが…たぶん自分は好きなのだと思う。

上手く言葉には出来ない。 

 

「舞?」

彼はうつむいたままの舞ちゃんをそっと抱き締めた。

「僕ね、時々思うんだ。何で舞が好きなんだろうって」

速水くんが舞ちゃんへ頭を寄せて続ける。

「髪や指や目…みんな2次的なものでしょ?」

「僕が好きなのはそれだけじゃないから。かと言って性格だけでもないし」

「いくら考えてもわからないんだ」

彼はしばらく沈黙し、そして独り言のようにポツンとつぶやいた。

「きっと理由はないんだよ」

抱き締める腕に力がこもる。

「僕は舞に出会うために生まれて来たんだ」

「それ以外に思いつかない。変だと思う?」

「…いや…」

確かに、自分が彼を好きな理由は『どこが好きか』で説明出来るものではない。

言うなれば『彼の存在そのもの』が自分にとって好ましいのであるから。

猫が彼女を惹きつけてやまないように、彼もまたその存在で舞ちゃんを魅了する。

「舞も僕に出会うために生まれて来てくれたのなら嬉しいな」

「…たぶん、そうだな」

「舞…」

「何故かはわからぬ。でも、そんな気がする」

『恋』や『愛』などというものがどのようなものかはまだよくわからない。

しかし、はっきりとこれだけはわかるのだ。

彼と…速水くんと一緒にいるのは、嫌じゃない。

それはむしろあるべき形のような気さえする。

「舞も僕と同じ様に僕を好きでいてくれるの?」

「…きっとそうだ。でなければ今、こうしてそなたと共にはおらぬ…」

速水くんが舞ちゃんの瞳を見つめる。

舞ちゃんはどうしていいかわからず、その瞳を避けるようにうつむいた。 

夜に一緒の部屋で過ごす事がどういうことかくらいはわかっている。

それでも、彼ならばいいと思うのは…好きだから。

理由はわからなくても、彼が好きだから。

 

「僕、舞以外の誰も好きにはならないよ」

ポツンと囁かれた言葉に舞ちゃんの胸が何故か切なく痛んだ。 

 

先のことなどわかりはしないのに、何故そうはっきりと言い切れるのか。

想いだけでは人は生きては行けなぬ。

しかし、想いが無ければまた生きては行けぬ。

例え小さな願いであっても、想い続ければ本物になる日が来るのだろうか。

そうであればいい、と思う。

自分を抱き締める腕がいつまでもここにある事を願うのは我侭なのかもしれないが。 

 

「送っていくよ」

「え?」

速水くんが腕を解いて舞ちゃんを見た。

「明日、また遊びに来て」

「厚志?」 

思いがけない言葉に見つめると、速水くんは少しうつむいて言った。

「…本当は帰したくないけど…」

「馬鹿…」

舞ちゃんは耳まで真っ赤になって、やっとのことで一言つぶやいた。

自分から誘っておいて、今度は帰れと言うなどとは。

でも、本当は帰したくないとも言う…

「そ、そなたは変な奴だな」

「そうかな」

悪びれずに速水くんが笑う。

「行こう。送っていくから」

立ち上がりかける彼に舞ちゃんは決死の覚悟で声を搾り出した。

「で、でも厚志…その、今日は……なの…だろう…?」

一瞬速水くんは彼女を凝視した。それから一言。

「舞のエッチ」

「ばっ、ばばば馬鹿者っ。そそ、そなたが言ったのではないかっ」

真っ赤になって怒り出す彼女に彼は声を上げて笑い出した。

「『おいで』とは言ったけど、それ以外は何も言ってないよ?」

「きき、貴様という奴は~~~~~っっ」

(決死の覚悟でやって来たというのに、またしてもこやつはっっ)

「私をからかうのがそんなに楽しいかっ」

掴みかかる手をかわして速水くんが舞ちゃんの腕を掴んだ。

「忘れてくれてもよかったんだよ」

「え?」 

つぶやくように発せられた言葉に彼女は速水くんを見つめた。

「忘れる?」

「僕が言った事、全部ね」

「厚志?」

問うような視線を受け、ふと彼は悪戯っぽく笑った。

「舞が『どうしても』って言うなら泊めてあげるよ」

「ど、どういう意味だっ」

赤くなる舞ちゃんに速水くんが笑う。

でも、浮かぶ笑みはとても優しくて…それ以上舞ちゃんは何も言えなくなった。 

 

 

「パジャマ代わりに使って」

速水くんが膝丈のスウェットの上下を渡す。

「着替えはバスルームでね。シャワー使うならすぐにお湯が出るから」

舞ちゃんはコクンとうなずいた。

バスルームのドアを開け、バスタブを見る。

(や、やはり…)

しばし悩んでから、急いで服を脱いだ。

バスタブへ入ってコックを捻るとシャワーから少し熱めの湯が出る。

全身に隈なくシャワーを浴びながら舞ちゃんはこめかみに響く鼓動を感じていた。

こんな日が来るなんて思いもしなかった。

芝村として生きて来た自分は人に嫌われこそすれ、好かれるなどとは思ってもいなかった。

自分が誰かを好きになり、ましてその相手と恋愛をするなど…

『どうしよう』という思いはまだ確かにある。

でも。

舞ちゃんは目を閉じて自分自身を抱き締めた。

 

 

着替えた彼女が部屋に戻ると、速水くんは仔猫達と遊んでいた。

彼女に気付いて立ち上がる。

「少し大きかったかな」

手のひらの半分まで隠れてしまう袖を彼が2回折り曲げた。

「とっても可愛いね。仔猫みたい」

しげしげと眺める速水くんに舞ちゃんは突如恥かしくなった。

考えてみれば、着ているのは彼の服で。

こんな状況にならない限り、着ることなどあるはずもなく…

「みんなと遊んでて?僕もシャワーを浴びてくるから」

『シャワー』という言葉を聞いて、彼女は一層恥かしくなった。

うつむいてしまった舞ちゃんの髪をそっと撫でて彼が出て行く。

なぁーぅ。

羞恥で立ちすくむ彼女の足元に大介がやって来た。

かがんで抱き上げた舞ちゃんの顔をぺろっと舐める。

「そなたらは良いな。羨ましいぞ」

こういう時どうすればいいか、考えずにいられるから。

彼女はテーブルを押しやってカーペットに寝転んだ。

まとわり付く仔猫たちをあやしながらため息を付く。

これからの事を考えないように、小さな塊に額を押し付けて。

頬に当たる温もりに彼女は迷いを払うように目を閉じた。

 

しばらくして速水くんが髪を拭きながら部屋へ戻ってきた。

「また猫になってるの?」

彼は舞ちゃんと並んでうつ伏せに寝転んだ。

にぁ。

擦り寄る仔猫に額を当ててくすぐる。それから隣の舞ちゃんを見た。

彼女はうつむいいたまま動かない。

「舞」

微かに視線を上げた彼女にゆっくりと顔を近付ける。

軽く唇が触れた。

はしゃぐ仔猫が彼らにじゃれかかる。

が、今日は彼らが邪魔をしても、速水くんは止めない。

 

一度離れた唇が深く重なった。

かすかに開いていた舞ちゃんの唇を割って彼が更に深く口付ける。

「…んっ…」

長い長いキス。息が出来なくて苦しい。

初めてだった。甘くて…熱い。

眩暈がする- 

 

ようやく離れた唇に知らず知らず舞ちゃんの口から吐息が漏れた。

再びうつむいてしまった彼女を速水くんがじっと見つめる。

「まだ、いいよ」

「もっと君が大人になってからで」

うつむいたまま少し肩を揺らした彼女へ静かに続ける。

「言ったでしょ。舞を好きなことにかわりはないから。今の舞もとっても可愛いし、一緒にいれれば幸せだから」

「…そなたはよくそう言う事を口にできるな」

「聞きたくない?」

「そ、そういう意味では…」

「僕の気持ち知ってて欲しいから。世界で一番好きだって知ってて欲しいから」

「また、そのような事を…」

うつむいたままつぶやく彼女の表情は髪に隠れてわからない。

速水くんはそれが残念で仕方が無かった。

どんな時でも彼女を見ていたいのに。

「ちゃんとわかってるから安心して」

「…何を安心するのだ?」

「舞の気持ち、伝わってるから」

ふと舞ちゃんが顔を上げた。速水くんが大好きな瞳でこちらを見る。

「今日来てくれて嬉しかった。嘘付いたのばれちゃって、何か格好つかないけど」

「あれはそなたが私の為に…」

言いかける言葉を視線で制す。

「君が一番大切だから」

彼女の気持ちが嬉しいから。だから余計にそう思う。

「とってもとっても大切なんだよ」

「…厚志」

「今はこのままでいいよ」

速水くんは彼女の手に自分の手を重ねてそっと握り締めた。

傷つけたくない。ずっとこの手で守っていたいから。

「だから『いつか』、ね?」

その言葉に舞ちゃんは少し赤くなってコクンとうなずいた。

「でも、キスはいっぱいしちゃおっと」

「ええっ?!ばっ、ばばばばっ」

近づく優しい瞳に抵抗できる訳もなく、彼の髪が頬に触れる前に舞ちゃんは諦めて目を閉じた。

 

 

猫の舞が速水くんちのベランダに戻って来た。

彼女は騒ぐ仔猫をあやしながら用意された食事を食べた。

見やるご主人様の部屋はカーテンが引かれ、明かりが消えている。

今日はもう遊んでもらえそうにない。

彼女は小さく一声部屋に向って鳴き、寝床へと入った。

群がる仔猫たちに囲まれて静かに目を閉じる。

明日は膝にのせて遊んでくれるだろうか、と思いながら。

 

 

髪を梳く指に舞ちゃんが目を覚ました。

まだ外は暗い。

横たわるベッドの傍らで速水くんがこちらを見ていた。

「厚志?」

「舞の髪柔らかくて気持ちがいいから」

指に絡めた髪をさらさらとこぼれ落とす。

「早いからもう少し寝よう?」

速水くんがそっと彼女を抱き寄せて肩に顔を埋める。

うなじにかかった息が少しくすぐったくて。

(猫みたいだ…)

そう思いながら舞ちゃんも目を閉じて彼にもたれ掛かった。

布越しに聞こえる鼓動がひそかに溶け合う。

とくん。とくん。とくん…

なだらかに、ゆるやかに。

とくん。とくん。とくん…

こんな風に全てがゆっくり溶け合ったならば。

『恋』がどういうものなのか…いつかわかるのだろうか、と彼女は思った。 

 

外で猫の鳴き声がした。

舞が帰って来たのかもしれない。

明日になったらまたみんなと遊ぼう。

今はこの温もりに包まれて眠りたいから。

舞、銀河、陽平、祭、未央、大介。みんなお休み。

そして…

「お休み、厚志」 

 

 

* * * * * * 

 

 

まぶしさを感じて舞ちゃんは身じろぎをした。

急速に浮上する意識に彼の声が聞こえてくる。

「ダメダメ待って。舞まだ寝てるんだから」

「…厚志?」

「あ、おはよう。起こしちゃった?」

「いや…」

舞ちゃんは身体を伸ばしてベランダを見た。

速水くんが開けたガラス戸を塞ぐようにサッシに座っている。

母猫と仔猫たちが彼にしがみ付いて部屋へ入る隙をうかがっていた。

「みんなが遊びたいって騒ぐんだ」

速水くんは顔だけ振り向いて肩に乗る舞の背中を押さえている。

「舞が来てからずっとなんだよ。遊びたくて仕方がないみたい。あ、こらっ」

舞が彼の手を振り切って室内へと飛び込んだ。

「待てって」

制止を聞かずに室内を一瞥してベッドへと飛び上がる。

なーう。

彼女は舞ちゃんの頭の周りを一回り歩いてから枕もとに座り込んだ。

「久しぶりだな。元気にしていたか?」

喉をかかれて気持ちよさそうに目を細める舞。

「もう、勝手に入っちゃ駄目じゃないか」 

舞を咎めようと部屋に踏み込んだ速水くんの後から仔猫がなだれ込んで来る。

「ああ、もう、お前たちまでっ」

「よいではないか。舞とは久しぶりなのだから。仔猫とて悪気があるわけではあるまい」

「ほんと猫に甘いんだから」

ぶつぶついいながら速水くんが次々と仔猫を拾ってベッドへ置いて行く。 

あっと言う間に舞ちゃんはふわふわの生き物たちに取り囲まれた。

「あ、厚志?」

「朝食が出来るまで、面倒みててよ」 

にゃーん。みー。

舞ちゃんの代わりに返事をした猫たちに肩をすくめて彼は台所へ向かった。

 

 

昨日の夕食時のように賑やかな朝食を終えた二人は、飽きもしないで猫に囲まれて休日を楽しんだ。

差し込む光は暖かく、いつものようにカーペットに寝転ぶ。

「動物って本能的にわかるんだよ。好かれているのか、嫌われているのか」

未央に背中をよじ登られながら速水くんが続ける。

「人間は言葉を媒体にするからわからない時もあるけど、彼らは直感でわかるんだ」

向ける視線の先には猫に取り囲まれた舞ちゃんが寝転んでいた。

「舞がみんなを好きなこと、きっとわかってるんだね」

自分より彼女に懐く仔猫が多いのは事実で、何だかちょっと悔しい気がする。

でも、本当に悔しいのはそんなことじゃない… 

背中から降ろした未央がすかさず舞ちゃんへ駆け寄るのを見て速水くんがため息を付く。

「ずるいよ、みんな。僕だって舞を独り占めしたいのに」

「猫に何を言っている」

「だって」

と起き上がって上目使いで舞ちゃんを見る。

「焼きもちくらいいいじゃない。舞は猫が1番でもさ、僕は舞が1番なんだから」

「何を言ってるのだ」

笑いながら舞ちゃんが速水くんに腕を差し出した。

彼が引いて起き上がらせる。

速水くんは更に引き寄せて舞ちゃんを腕の中へ閉じ込めた。

「二人でいる時くらい、こうやって抱き締めてたいのに」

「かまわぬぞ。そなたがそうしたいなら」

「いいの?ずっとこのままでいちゃうよ?死ぬまで離さないんだから」

「…それもよかろう」

「え?本当に?本当にこのままいてもいいの?」

祭と銀河が舞ちゃんの膝に昇ってきた。

なぁーう。

彼女は速水くんに抱き締められたまま仔猫たちを膝に座らせて愛しげに撫でた。 

問いに答えない彼女の耳元で念を押すように名を呼ぶ。

「舞?」

「…そなたの腕は…心地よいからな」

ぽつりと囁かれた言葉に速水くんが腕に力を込めた。

ぎゅっ。

「厚志、苦しい」

「離さないって言った」

「限度があるだろう」

腕を叩かれ、彼はしぶしぶ縛めを緩めた。

「本当は今日も帰したくないけど、そういう訳にもいかないね」

「馬鹿者」

「だって、一緒にいてもみんなが舞を取っちゃうんだもん」

「だから、猫を相手に焼きもちを焼くな」

「そんなの無理だよ。僕だけの舞でいて欲しいんだから」

仔猫を撫でる舞ちゃんの手を掴んで速水くんが自分の方へ引き寄せる。

舞ちゃんは困ったようにその手をそっと引き戻した。

「…私はそなたのものだ。そなたの…カダヤなのだからな」

「…じゃあ、舞からキスしてくれる?」

「えええっ、な、なぬをっ」

驚いて振り向く彼女に速水くんは頬を膨らませた。

「ずるいよ。僕には焼きもちを焼くなって言っててさ」

「調子にのるな」

「いいじゃない、このくらい」

「まったくっ何を考えている」

「舞ー」

だだっこの様すねる彼に舞ちゃんは肩を竦めた。

「わかった。では目をつぶっていろ。しっかりとだぞ」

「うん、しっかり閉じてる」

嬉々として彼がすぐさま目を閉じる。

舞ちゃんは膝の銀河を抱き上げてその小さな顔を速水くんへ押し付けた。

ピトッ。

「ん?」

妙な感触にいぶかしんだ彼が目を開けた。銀河がぺしっと速水くんの鼻先を叩く。

「うわっ」

くすくす笑って舞ちゃんはそのまま銀河を彼の顔へ被せた。

落ちまいとする彼が速水くんの頭に爪を立てる。

「まい~っ」

「そなたが調子にのるからだ」

「もうっ」

銀河を降ろした速水くんが彼女を掴もうと手を伸ばす。

「わっ、こら止めよっ」

追いかける速水くんと逃げる舞ちゃんがもつれるようにカーペットに倒れ込んだ。

覆い被さる体勢で動かない速水くん。

「舞」 

「あ…」

急に真剣な瞳になった彼に舞ちゃんは言葉を無くした。

鼓動が頭の中で大きく響く。

揺れる瞳が速水くんを映した。

少しずつ体重を掛けながら彼は舞ちゃんのうなじに顔を埋める。

「あああ、厚志?!」

「ねぇ…このまま君を…」

白いうなじに唇を寄せてそのまま静かに押し付ける。

くすぐったさと初めての感触に舞ちゃんの身体がビクンと震えた。

「まま、待て、そなたまだいいと言ってっ…」

「好きだよ、舞」

耳元で甘い声がして一層彼女を動揺させる。

「ま、待てと言うのにっ」

舞ちゃんは焦って速水くんのシャツの背中を引っ張った。

「厚志っ」

くすっ。

「なにッ?!」

「引っかかった」

「~~~っ!!!」

憤慨する彼女に肩を押されて彼は身体を起こした。

「舞が先に意地悪したんだからね」

「まま、まったく、そなたという奴はっ。し、心臓が止まりそうだったぞっ」

「…そんなに僕が恐かった?」

速水くんが見上げる瞳を見つめる。

「え…」

「…何でもないよ」

つぶやいて彼は舞ちゃんの隣に座り込んだ。

目を伏せる速水くんを見ながら舞ちゃんが起き上がる。

「…その…すまぬ」

「何、急に?」

「ええと…その、そなたが恐い訳では、ない…」

舞ちゃんは視線を落として自分の膝を見つめた。

「…どうしていいかわからぬのだ。許せ…」

誰も教えてくれなかったから。

彼が好きになった初めての人だから。

「僕も猫だったらよかったな…」

彼はベッドにもたれて掛かり、飛び跳ねる仔猫たちをぼんやり見た。

「そしたら、舞の1番になれたのに。それに膝に乗せて撫でてもらえたかもしれない…」

「そ、それは…困るぞ」

「困る?どうして?」

向けられた視線に舞ちゃんは慌ててうつむいた。

「そ、そなたが猫だったら、その、出来ぬこともあろう」

「例えば?」

「例えば…昨夜、私の髪を梳いていただろう。猫では出来ぬ」

髪を梳く彼の指が好きだとは言えなかった。

子供の時以来で気恥ずかしくはあったけれど…二人で行った映画館で彼に初めて髪を撫でられてから、ずっとそれは好ましくて。

「そうだね」

と彼は舞ちゃんを見ながら言った。

「抱き締めたりキスしたりも出来なくなるしね。それから…『いつか』、も」

「たたたたた、たわけっ」

怒鳴って舞ちゃんはスウェットのズボンを握り締めた。

うつむく頬が真っ赤になっている。

速水くんにはそんな彼女が可愛くてたまらない。

「2番でもいいかぁ」

彼は吹っ切るように伸びをした。

自分を好きでいてくれるのなら、それでいい。 

こうして彼女の側にいることを許されているのは自分だけだから。

猫以外は。

 

「言っておくが厚志」

と言ってから彼女はそっぽを向いた。

「私の1番は…そなただからな」

速水くんは舞ちゃんの横顔をキョトンと見る。

「猫が1番じゃないの?」

「そ、そなたが1番では不服か」

「そんな事ない。全然、ないっ。不服なんかじゃないよ!」

彼は叫んで舞ちゃんを覗き込んだ。頬が微かに赤くなっている。

「ねぇ、僕が1番って本当?」

「なんなら2番にしてやってもいいぞ」

「嫌だよ。1番がいいに決まってるじゃないか」

「では猫に焼きもちを焼くのはもう止めよ」

「そうはいかないかも」

速水くんは舞ちゃんに擦り寄る陽平と未央を抱き上げた。

「厚志?」

怪訝そうな彼女に笑ってから仔猫に向き直る。

「君達は2番なんだから、もっと遠慮して」

速水くんは仔猫を抱いたままベランダへ行き、彼らを降ろした。

「邪魔しないで外にいてよね」

 

 

* * * * * * 

 

 

「舞」

街灯に照らされる木造アパートの前。

呼ばれて振り返る舞ちゃんを速水くんが抱き締めた。

「来週も来てくれる?僕、待ってるから」

「まかせるがいい」

「その、猫じゃなくて、僕が待ってていいんだよね?」

瞬間、舞ちゃんはポカンと速水くんを見た。それからいきなり吹き出す。

「何、笑ってるの」

「案ずるな何でもない」

舞ちゃんは込み上げる笑いをどうにか押さえた。

「必ず行くから待っていろ」

「うん、約束だよ?」

速水くんが瞳を覗きこんで舞ちゃんの額に口付ける。

本当はもっと一緒にいたいけど…

「お休み」

名残おしく腕を離して、彼は振り切るように駆け出した。

その場にいたら、また彼女を抱き締めたくなくなる。

抱き締めたら離せなくなる。

たとえ1番だとわかっていても、離れている時は不安になるから。

猫が恋敵なんて笑われるかも知れないけれど。でも- 

 

舞ちゃんは急いでアパートの階段を昇って部屋へ向った。

玄関で靴を脱ぎ捨て窓へ駆け寄る。

開けた窓の向うに小さな彼の姿が見えた。

じっと見つめる先で突然速水くんが振り返った。

立ち止まってこちらを見ている。

「厚志…」

何故か少し胸が痛んだ。

先ほど別れた時には何も感じなかったのに。

 

ピピン、ピピン-

突然多目的結晶体からメールの着信音が聞こえた。

いぶかしみながら見ると速水くんからのメールだった。

『今夜、僕の夢をみて。僕も舞の夢をみるから』

『夢の中で一緒にいよう…』

 

そのメールに舞ちゃんは少し目を伏せ、微笑んだ。

誰しも離れていると会いたくなるのか。

自分だけでなく、彼もまた。

彼女は急いで返事を送った。 

 

『わかった。夢で会うことにしよう。でも、その前に…』

『そなたが焼きもちを焼かぬよう、猫は大家にでも預けておくがいい』 

 

返事の代わりに遠くで彼が手を振った。

「お休み…」

そうつぶやいて、舞ちゃんは再び駈けて行く彼の姿が見えなくなるまでじっと窓の外を見ていた。

 

 

END

 

2001/8/5